現実を生きること。(シンエヴァ感想)

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、観てきました。
※以下、作品の大きな特徴には触れていますが、ネタバレはしていない(つもり)です。


ちなみに、最近になって突然エヴァに手をつけたのは、昨年末に映画館で見た予告編が格好良かったからです。詳しくはこちらに書いています↓

というわけで、今年に入ってから慌てて、TVシリーズ26話・旧劇場版・新劇場版3本を見て、ついに、最新作(最終話)を観たところです。
見終えた瞬間は、正直、完結したことに驚いてしまいました。本当に完結するのか、と……。もちろん、話の内容は1割も理解できていないのですが、それでも、すべての辻褄が合ったことを直感せざるを得ないのです。今まで通った道筋をもう一度通った上で完結するなんて、すごいなあ。


私が、エヴァンゲリオンという作品で好きなのは、おそらく多くのファンの方々と同じでしょうけれど、登場人物たちの生き様。皆が、各々の大切なものを守るために、時にエゴを剥き出しにして闘い、ボロボロになりながら生きているところが、愛おしいのです。

私自身、歳を重ねるにつれて、自己防衛より、他人を庇う方が、なりふり構わず必死になれるという実感があるので、彼らに共感できるのだと思います。生きていると、自ら争いを望まなくても、闘わなくてはいけない場面が、あまりに多いのです。

生きるって、辛い。ただ生きる、ってだけのことが、一番苦しい。でも、どんなに辛くても、生きるか死ぬかの判断も、自分でしなくてはならない。また、それと同時に、全ての人間は、他人とつながることを諦めきれない。そう思います。
そして主人公の少年(碇シンジ)は、最終的に、孤独な現実逃避から抜け出し、他人との関わり合いの中で、傷つきながらも現実を生きることを決意するのです。


私は、我が人生における現実逃避全盛期に、「唯美主義」を論文テーマとして扱っていたことがありました。現実逃避まっしぐらです。(具体的には、19世紀後半のイギリス絵画、特に「ラファエル前派」周辺の画家たちの、作風の傾向を探るということをしていました。)

その結果、辿り着いたのが、完全なる袋小路。そこまで行って、これは先のない思想なのだと、ようやく気づきました。そこでは、現実を拒み、目を閉じて眠るしかない。それは、死のような眠りでした。
実際、19世紀末を目前にした頃、イギリスの唯美主義絵画では、「眠り」というテーマが流行します。まるで無気力状態のシンジ君です。


画像1

アルバート・ムーア《夏の夜》1890 初出品(リバプール国立美術館)

画像2

エドワード・バーン=ジョーンズ《眠り姫》1885-90(バスコット・パーク)

画像3

フレデリック・レイトン《燃える 6 月》1895(ポンセ美術館)


醜悪な現実からの逃避を試み、理想郷へ憧れ、最終的に心を閉ざし「眠り」に結実した唯美主義。それは、19世紀においては進歩主義へのアンチテーゼと捉えることもできますが、だからといって、その先へ続く生命力がない。当時の私は、論文の最終章を書きながら、孤独と虚しさを感じていました。


それから数年経ち、最近ようやく、現実を生きることを考えるようになりました。少しは、闘う覚悟ができたのかもしれません。
だからこそ、この映画を、今このタイミングで観ることができて良かったなあと思います。


画像4

今回はレイ描いてみました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?