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母校の演奏を聴いて気づいた、「高校生ならでは」の大切さ

芸術の秋。毎年、この時期になると全国各地で屋外のイベントや演奏会が行われる。今年は、新型コロナウイルスの影響で縮小や中止を余儀なくされているが、数ヶ月前と比較するとずいぶんイベントが増えてきた。そう、中学校や高校の吹奏楽部の演奏機会も徐々に戻ってきたのである。

この週末は、地元で屋外の催し物があり、母校(高校)の吹奏楽部の演奏があった。東京に戻るめどが立たず、地元にいるからこそできたことであろう。もう、卒業して数年経っているため、知っている後輩はほとんどいない。その分、客観的に演奏を聴くことができた。

単独のコンサートではなかったため、わずか20分だけの演奏だったが、とても楽しかった。毎日、イヤホン越しに聞く音とは違う生音。そして、楽しそうに活き活きと演奏する高校生たち。そんな姿を見ているうちに、かつて同じように赤いパーカーとポニーテール姿で楽器を吹いていた頃を思い出した。

私は、中学校の吹奏楽部でフルートを始めた。しかし、自分が通っていた中学校は吹奏楽部の活動が盛んではなかったため、コンクールの成績も悪かったし、お祭りやイベント等で演奏する機会もほとんどなかった。そんな状況であったが、高校に進学した後も吹奏楽を続けた。そこで、私は凄いコンプレックスを抱えることになる。高校の吹奏楽部には、県大会や支部大会の常連校出身の先輩や同輩、後輩が多く、中には普通高校であるにも拘わらず東京藝大に進む人もいるくらい凄い人たちがいた。超弱小校出身の自分は、そんな中で楽器を吹くことが凄く窮屈で辛くて、何度も何度も辞めたいと思った。そして、校内だけでなく外部で演奏することも嫌だった。「プロでもないのに、なんで普通の高校生が人前で演奏する必要があるの?」とやきもきしていた。うまい学校から来ている人の集まりであっても、当時の母校の吹奏楽部は私立の強豪には及ばず、あまり知名度がなかった。どうせ、聴いてくれる人は家族や友人だけなのになあと、他の強豪校が羨ましく思うことも多々あった。それでも演奏すること自体は楽しかったし、演奏を聴きに来てくれた友人や家族から「よかったよ!!」と言ってもらえることは嬉しかった。そんな葛藤を抱えながら、私は高校の吹奏楽部を引退した。

大学でも少しだけ続けたが、高校の時のような演奏の楽しさや充実感が得られず、そして吹奏楽以外のことにも挑戦したくなり、一年足らずでやめてしまった。現在は専ら「聴く専」で、演奏に関しては細々と母校のOBバンドで吹くくらいである。吹奏楽の演奏側から聴く側になってから、気づいたことがあった。「高校生ならでは」のパワーである。高校生の演奏は、確かにプロの団体には至らない部分が多い。それでも、高校三年間という限られた時間とその若さ、そして「吹奏楽部に属すること」の意味が演奏の上手さよりも価値があるのだ。一方、大学になると、自由な時間が増えるし部活だけやっていればいいという訳ではなくなる。そのせいか、大学生にとって吹奏楽をすることはあまり力がないような印象を受ける。大学の名前を背負ってコンクールに出る団体よりかは、独自でコンサートを開いて趣味程度に楽しんでいるように感じられる。高校生が人前で演奏することは、他の世代にはない若さと新鮮さとひたむきさがある。そのパワーが聴く人に元気を届けるのだ。

また、地方だと地域コミュニティの構築の面で中学校や高校の吹奏楽部は大きな役割を果たすだろう。地元にはこんな生徒たちが音楽を楽しんでいて、演奏をしているということがイベントで伝わる。それが聴く人にとって地元や学校、そしてその吹奏楽部の愛着につながる。

今回の演奏を聴いて、演奏する彼らから活力をもらえた一方、自分がもう大学生であんなふうに演奏ができないことを思い知らされ、悲しくなった。しかし、高校時代には気づけなかった葛藤の真相に気づけたことが、一番良かったことだろう。高校生の時の自分たちの演奏を聴いていた人の中にも、自分のように元気をもらった人はいたのかな、いたら嬉しいなと温かくなった。辞めないでよかった。演奏を楽しめてよかった。そう、昔を懐かしむ休日であった。


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