短編小説:「謎のウイルスと愛の関係」

 疫病は一定の周期で蔓延し、世界中を恐怖に陥れる。人口過多となった世界で、大勢の人が一度に亡くなる。謎のウイルスが蔓延するとき、奇しくも人間は当たり前の日常はかけがえの無いものであることに気づく。そして、愛する人の安全が気になり始める。愛する者を守りたい気持ちは、人に良くも悪くも影響を与える。壮大な理論はさておき、身近なところでは謎のウイルスが一部の人間の恋を後押しする場合もある。

 メアリーは退屈していた。もちろん、メアリーは彼女の本名ではない。麻里(MARI) という名前だが、周囲には外国人風にメアリーと名乗っている。謎のウイルスがある国で流行し、日本でも感染者が増えてきているという。人が集まるところに極力行かないように政府から言われているのだ。メアリーは普段、土日の予定は常に満杯であった。社交的なメアリーは、刺激が好きで、知らない人の集まりにも顔を出し、いつの間にか仲良くなってしまう。残念なことに、メアリーの得意分野である十人以上の集まりは自粛するように言われいてる。


 メアリーとドクターが出会ったのはもう数年ほど前になる。もちろん、ドクターは彼の本名ではない。大学の助教を生業にしているから、メアリーが勝手にドクターと呼んでいる。知人を通じて出会ったのだが、ドクターははじめからメアリーのことが気になっていた。大学ではあまり女性がいないこともあるが、メアリーの持つ雰囲気は女性らしくもあり、また極めて個性的だったからだ。研究室の閉塞感と異なり、彼女には自由があふれていた。美大で絵を学んだ彼女は、現在は美大の先輩が運営しているギャラリーを手伝いながら、自分も制作活動に勤しんでいる。ドクターは、メアリーが好きな絵について語る時が一番好きだった。純真無垢な心を感じるからだ。メアリーからは、計算高さや世の中のしがらみは感じられない。彼女を動かすものは「絵が好き」という気持ちだけだからだ。


 ドクターに対してメアリーはどうだったかというと、良い人だな、という印象を持った程度だった。紳士的で、聞き上手なドクターだったから、数ヶ月に一度は会って話す仲になった。好奇心旺盛なメアリーは、ドクターが持つ知識の多さが好きだった。会話していて飽きることがないのだ。美術館巡りはメアリーの生き甲斐なのだが、ドクターは多忙にも関わらず、常に予定を合わせて付き合ってくれた。メアリーは、美術に関して貪欲に知識を求めていたが、それにしても一人ではなく誰かと一緒に展示会へ行きたい時もある。昔から一人行動は好きだったが、最近少し大人になったのか、人と一緒に行動し、お互いにどう感じたのか共有する時間を好きになっている。孤独を愛することでなく、人と過ごす時間を愛することが大人になるという事かもしれない。若さとは、孤独でいられる強さでもある。そう、知的好奇心が旺盛なドクターは打てば響く反応をしてくれるので、まさに「共有」の相手に相応しかった。


 ウイルスの蔓延は、人々の生活を一変させた。メアリーの勤めるギャラリーは遂に臨時休業せざるを得なくなった。メアリーの愛する美術館も、無期限の休館となってしまった。必然的に、家で黙々と作業することが多くなった。メアリーの家は、都心から離れた郊外にあり、緑豊かな土地にあった。世界がウイルスで騒ぎ始めたのは冬のことだったが、気がつけば桜は散ってた。メアリーは春の雨で散り、地面に張り付いている桜の花弁が切ないな、と思う。水溜りに反射する光を見つめながら、ふと最後にドクターと会った時、ドクターが「いつかあなたの作品を見てみたい」と言っていたことを思い出す。

 メアリーは自由奔放で明るい性格だから、異性に人気だった。しかし特定の恋人は長い間いなかった。一見強く見える彼女は、実はとても繊細で、誰かを傷付けることを極度に恐れていた。そのため自分に夢中になっていく異性を見ると、拒否反応を起こしてしまう。そして、彼女が夢中になる相手はいつも現実離れした相手ばかりだ。例えば既婚者だったり、一途なメアリーをからかう様な輩だ。そもそも勝算がないから、傷付いたとしてもメアリーだけで、相手は何の痛みも伴わない。そんな、酷くつらい片思いばかりしていた。少女の様に天真爛漫なメアリーも、今年で二十五になる。今回のような有事の時、孤独は骨まで染みる。誰かに側に居て欲しくなる。


 「うちに来て、私の作品を見る?」そう、メアリーはメッセージを打っていた。ドクターは前々から彼女の作品に興味があったし、いつもの様に美術館で集合することも出来ない時勢だから、「うん、それは嬉しいです。楽しみにしているね。」と返事をした。約束の日、そう返事をしたもののドクターはやはり緊張していた。一人暮らしの、しかも気になる女性の家に行くのだから。もちろん、下心など有りはしないのだが。電車で一時間以上揺られ、彼女の街へ到着した。


 メアリーの家に辿り着くためには、薄暗い小道を歩かなければならなかった。駅からは少し遠くて、十五分くらいは歩いただろうか。彼女の家は少し古びたアパートの二階だった。部屋は広くはないが綺麗に整頓されていて、所々に彼女のデッサンや、作品が転がっていた。


 「へえ、たくさんあるね。見てもいいかい?」ドクターは尋ねた。
「もちろん。今、お茶を入れるね。」そう言って、メアリーはTWINGSの緑茶をドクターに淹れてくれた。床に転がっているメアリーの絵は、雨の描写が多く、基本的には可愛らしい作風だけれども、どこか寂しそうに感じた。「私は続きを描くね。」
「どうぞ。」とドクターは言った。そして少し軋む古びた椅子に腰掛けながら、製作の続きに取り掛かるメアリーの後ろ姿を見ていた。彼女越しに見える窓には大きな雨粒が付いている。最近、都内では雨が続いていた。春だというのに、まるで梅雨のようだった。ウイルスの蔓延で出かけることも少なく、一人でこの窓越しに見える雨を描いていたのだろうか?とふと考える。


 お茶を啜りながら、メアリーを眺めていたら小一時間が経っていた。彼女は休むことなく描き続けて、ふと電池が切れたように手を止めた。
「・・・ごめんね。私夢中になっていて。今、何時?」メアリーが言う。
「もう六時になるね。あっという間だった。」彼女の顔には青と紫の絵の具が付いていて、その様子を見るとやはり可愛いなと思ってしまう。
「お腹空いている?何か作るね。」メアリーはそう言って、手際良く夕飯の支度を始めた。ウイルスの蔓延で外食することが減ってから、彼女の料理の腕は大いに上達していた。彼女はサラダとオムライスを作った。ドクターは普段自炊をすることはないから、久しぶりの手料理で胃も心も満たされた。


 食後に少し会話を楽しみ、時計は八時を回ろうとしていた。ドクターは、いつまでも一人暮らしの女性の家に居座るのは申し訳なくなり、こう言った。「そろそろお暇するね。」「そう。」メアリーは少し寂しげに答えた。頼れる家族も近くに居ない今、今日のドクターとの時間は安心感を与えてくれたからだ。玄関先で見送るメアリーが、「今日はありがとう。来てくれて。」と言って、不意にドクターを抱き締めた。ドクターは少し驚いたものの、寂しげな雨の絵を見ていたので、彼女の行動は納得出来た。そして、「こちらこそ、ありがとう。」と言って受け入れた。


 メアリーは少し恥ずかしくなったのか、「それじゃあ、また来てね。」と言って玄関のドアを閉めようとした。その照れた様子が可愛かったので、ドクターはそのまま静かに去ることにした。帰り道、雨はシトシト降り続ける。来た時と同じ薄暗い小道を辿るドクターの顔は、綻んでいる。雨だが、今日は良い日だった、とー  


(終)
 

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