【読書記録】哲学の起源 柄谷行人
哲学の起源 柄谷行人
岩波現代文庫
ギリシャに特徴的であると思われている哲学や政治制度は、じつはギリシャではなくイオニアの自然哲学に始まりました。植民市であったイオニアの社会構造のおかげで実現した、自由と平等を両立させた自然哲学。イオニアの自然哲学は社会契約でもあり、「イソノミア」(無支配)の精神はここから来ています。それがアテネにおいては、その堕落した形態である「デモクラシー」(多数派支配)に変容してしまいました。イオニアで自然哲学が栄えた時代に実践されていたイソノミアは、本書の最重要キーワードです。
本書では、イオニアとアテネの思想的な違いを、ソクラテスとプラトンという師弟関係にある哲学者の決定的な違いを通して考察します。
ソクラテスは、デモクラシー、つまり民主政に基づく政治ではなく、それを斥ける力を持つイソノミアという政体を目指しました。
いっぽう、師ソクラテスの死を受けたプラトンは、ソクラテスの名を利用しつつその虚像を作り、師が目指したものとは異なる形而上学を展開します。
柄谷行人は、社会構成体の歴史において「交換様式」という観点を用います。これは『世界史の構造』において展開された概念で、マルクスの「生産様式」では説明できない部分を拾うものです。(『世界史の構造』を先に読むべきでした)
交換様式A(互酬的交換):定住以後の氏族社会を支えたシステム。
交換様式B(支配―被支配関係):専制国家。
交換様式C(商品交換):広範な交易権を持つ広域国家。
交換様式D:交換様式BとCを克服したのちに、Aを高次元で回復しようとするもの。
イオニアは、植民者たちが新たに作った盟約共同体。おもに独立自営農業者や商工業者から成る社会は、評議会によって運営され、格差が生じ始めると、住民は他所へ移住するという遊動民的な精神がありました。このような社会背景のもと、イソノミアが可能になり、自由と平等が両立します。自由とは政治・経済的な自由であり、平等とは経済と身分の格差がないこと。現代においても危ういバランスの下にある自由と平等の問題を克服していた特別な地域がイオニアです。
「交換様式という観点から見ると、イオニアでは、交換様式Aおよび交換様式Bが交換様式Cによって越えられ、その上で、交換様式Aの根源にある遊動性が高次元で回復されたのである。それが交換様式D、すなわち、自由であることが平等であるようなイソノミアである」(p.44)
イソノミアの精神はしかし、イオニアの衰退するにつれ、力を蓄えたアテネとスパルタのデモクラシーに取って代わられます。彼らの民主主義は自由か平等かのどちらかに偏っており、奴隷制を基盤として労働を軽視するものでした。
イソノミアに結びついているイオニアの自然哲学と、アテネの政治哲学は対照的です。
イオニアでは、人間と世界を一貫して自然(フィシス)とみなします。技術(テクネー)を重視し、自民族中心主義はなく、コスモポリスに生きる人びとの共同体。
アテネでは、制度(ノモス)によって差別がおこなわれています。アテネ中心主義で、技術や労働を蔑視します。何より大切なのは公人としてポリス内の政治に参加すること。
イオニア人はまた、二重世界を否定しました。つまり、物質的労働と精神的労働の分解、哲学者と非哲学者、理性と感性、真理と仮象の区別などを否定したのです。イソノミアは特別の地位、権限、資格を許さないからです。
ペルシア戦争以降、アテネが都市国家群の覇権を握ると、地元で活動できなくなったイオニア系の思想家は、アテネに出向いて知識を売る外国商人になります。コスモポリタンな一個人として現実に深くコミットしない、懐疑主義的(ストア派やエピクロス派の源泉)な「ソフィスト」たちです。アテネは政治・経済的に強国ですが、言論や思想においては遅れていました。とはいえアテネ市民は、イオニア人から支配のための「技術」としての弁論術だけを学び、弁論とは人間を含む自然認識の方法であるというイオニア自然哲学に興味はありませんでした。同時に、外国人である「ソフィスト」たちも、危険思想の持ち主と疑われぬよう、あえて技術しか教えませんでした。そんななか、技術を超えて「思想教育」を若者に授けてしまい、処刑されたのがアテネの人ソクラテスでした。
彼は公の権力を得ることに価値を置かず、公人として活動するための技術ではなく、それを断念させてしまうような考えを教えたため、「青年を堕落させる」とみなされます。国事と家政、公的(政治的)と私的(経済的)を同位に置き、自由民と奴隷(=自由と労働)の区別をしなかったのです。ソクラテスは、公人でもなく私人でもない「自己」が住む市民社会、つまりイオニアにあったイソノミアの実現を目指しました。民会(政治の場)ではなくアゴラ(公共広場)へいって、一般の人びとと話し合ったのでした。
ソクラテスは基本的にイオニア派の物体主義者。「死」とは「無。神のみぞ知る」とのたまいました。しかしプラトンは師の死を「肉体からの魂の解放」であったとみなします。さらに「イデア論」によって、イオニア自然哲学の真逆を行きます。
形相(=非物体)主義者プラトンは、イデア論とは反対の物体主義者であるイオニア派の思想との闘争をソクラテスの名によって正当化しようとしました。そして、ソクラテスの死をもたらした「デモクラシー」の起源であるイオニアの精神を駆逐し、イオニアの「運動する物質」を否定するために、「魂による物質の支配」という考えを確立しようとします。これを一貫して「ソクラテス」の名において果たしたため、プラトン以来「哲学の起源」はソクラテスにあるとみなされ、プラトンを批判する者はソクラテスを批判し、ソクラテスを超えるのはソクラテス以前の思考にあると考えました。しかし、ソクラテスこそはイオニアの思想と政治を回復しようとした最後の人だったのです。
「プラトン的な形而上学・神学を否定するためには、ほかならぬソクラテスこそが必要なのである」(p.227)
わたしは、イオニア自然哲学における、二重世界の否定に興味を持っています。二項対立というわかりやすい図式で世界を論じることの危うさをつねづね感じるからです。二元論に頼りたくなるのは人間の習性なのでしょうか。考え方のヒントは、柄谷行人はもとより、プロティノス、フィヒテ、ドゥルーズ、デリダらにあるような気がしています。
おまけ
二律背反的なことがらや、両立しえないようなことを両立させようとする試みはどのようなものか。スウェーデンのミュルダールという経済学者は、経済成長と福祉や平等を、国内的だけではなく国際的に同時に成り立たせる理論を展開した、ということを小耳に挟んで、藤田菜々子先生の本を読んでおりますが、専門性が強く大変難しいです。
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