久しぶりに投稿

人に文章を見せることが急に恥ずかしくなり、文章の投稿をやめてしまった。

文章のクオリティが低いからではない。低いのは、ある意味、構わない。クオリティが低くても、筆者が素知らぬ顔して耐えていることには一定の価値があるものだ、なんて私は思っている。本当は嫌で消えてしまいたいが。

では、何に恥ずかしくなったのか。自分本位な文章を書くことには、もとより自覚的だったはずなのだ。読者のために書くのではない、と。

ーーならば、そんな文章、ネットに投稿しなくていいではないか。それだけだ。

それが恥ずかしくなったから。もう少し詳しく言えば、「他人に向けて書かなくてもよい」という、逆張り的な考えを免罪符にして、なんだろう、自分の我や拙さ、未熟さなどといったものを闇雲に擁護していたのかな、と思い、それが恥ずかしくなった。


ところで、また、私は自分を反省する文章をたびたび書くように思う。たったいまもまさに、こうして書いている。これは「こんな反省ができている自分」のアピールに他ならない。それどころか、他人に対する「あなたはこんな反省ができているか。あなたにこんな反省ができるのか?」といった批判とマウンティングの意図が、醜悪な巨大さで根底に存在しているのだ。

一見素直に、いかにも思慮深げに自分を反省してみせ、遠回しに他人を責め続ける文章。読んだ人に暗に緊張を強いる文章。そういう、落とし穴を掘ってそこに人をはめ、トゲに刺さって血が出ているのを見て喜ぶような文章を書く自分に嫌気がさし、恥じて、つまり反省しーー出た、また反省だーー、書くのをやめた。



自分の性格の問題に対処しようと思い、診断などを受けてみて、「認知の歪み」なるものが指摘された。

あらゆる言葉を疑い、信じ込まされないようにと、簡単に納得しないようにと心がけてきた自分。しかしそれは、なんでもかんでもをただ無闇に否定しているにすぎず、本当の意味での判断力から自分を遠ざけていたのだと薄々感じ始め、いまヘコんでいる。私はこの「認知の歪み」という言葉にどう向き合えるだろうか。

数年前は、ネットの内外を問わず、なにかの文章や発言を見ては、反感や不快感をムクムクと募らせ、唾を吐きかけてやりたいような気持ちが抑えられなかった。それも文章投稿をやめた理由の一。しかし、いまはそれほどでもなく、ほどよく無関心でいられるような。少しは成長したのだろうか。


「成長」だとか「判断力」だとか、数年前の自分なら辛気臭いと思っていた言葉。いや、いまでも思っているか?そういう言葉を使ってみた。そうすれば、より多くの人に届くようなテイストの文章になるのかななどと思い。なんとなく、(以前の自分の文章と比べて)ひとまわり客観性を強めた文章に寄せられるのかなと思い。

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