海底【書き方の模索②】

海底をさまよっている時に考えること。地に足がついているか。言葉の重みは十分に軽いか。光の届かない深さまで来ているか。言葉の重みが十分に軽ければ、言葉はちゃんと浮上してくれる。海面にいる人ーー海面に人がいるのだとしたらだけどーーや、近隣の島国の人に言葉が届きうる。言葉が海水よりも重ければ、言葉は海底に沈殿してしまう。してしまうと言ったが、それが目的で書くことだって、時にはある。あたりには魚とかしかいないから、おかしな言葉や不格好な言葉、つまりそういう自分を、海の底にどんどん沈没させていき、僕自身は軽くなろうというわけだ。

どう? この文章。この文章、書くのがとても速い。とても速く書ける。いま、文章の書き方を改めて模索している。かなり感覚的で、人に伝わりにくい話になってしまうけど、「もっとしっかり書く」こともできる。それを、これの直前に試していた(『渦を描くように』がそれ)。「もっとしっかり書く」場合、結果的に言うと、時間がかかるな。それはどういうことなんだろう。たぶんだけど、なにか型に当てはめているんじゃないのかな。お決まりのパターンといったほど明確な型ではなくて、なんというか、自分の中にある「こうあって欲しいというイメージ」、そんなものを再現するとでも言った感覚の作文。言葉を容易に決められない。これも違う、あれも違う、と探していく感じ。結構大変。うまい言葉が見つかった時ーー見つかるまで模索するわけだけどーー、達成感は確かにある。しかし、最初に言った通り時間がかかるのと、「なにか振る舞いを作っている」ような感じがする。自分ではないなにかを演じているような。売れる文体や求められる表現に即して、自分中心ではなく他人中心にものを書く感じ。客観性と言えば聞こえは良いかもしれない。しかし、やっていて楽しくない。それに対して、たった今書いているこの文章は、流れるように書き進められ、いくらでも書き続けられそうに感じる。楽で、簡単だ。自己表現と言えるだろう。自己表現というものが良いのか悪いのか、知らない。知らないって言い方、アホだな。わからない、にしよう。自己表現が良いのか悪いのか、わからない。

自己表現しなかったら、どうするかというと、だから、人々の期待に応えるということだ。誰もお前に期待していない、とかそんな話ではない。求められる文章、人が読みたいと思うものを、自分から積極的にアレしていくんだよ。アレってなんだろう。追従って書こうとしてやめた。再現っていうのもやめる。踏襲とかかな。自分から擦り寄るみたいなイメージ。熟語がすぐに思いつかなかったので「アレ」と書いた。適当に書いちゃってる。こうやって書いてて思ったけど、やっぱりこんな風に自分本位で書いた方が、よっぽど個性が出る気がする。今この瞬間、考えていること。自分から見た世界の様子。取るに足るとか足らないとか、書くに値するしない、そんなことは......。そんなことは? ......。どうでもいいってわけではないけど。どうでもいいって言おうとしてやめた。どうでもいいわけではないかな。そこはやっぱりさ。たださ、人と同じように振る舞うからこそ、特筆性がなくなっちゃうじゃないかな。屁理屈かな? 人と同じように振る舞うから、誰でもなくなっちゃう。もしくは、誰かになっちゃう。言ってる意味わからないね。自分でもわからない。あまり、わからない。「自分のように振る舞う」って出来るか?

早く自分になりたいなー。みたいな。何者でもない、て表現あるじゃん。何者かであるって、どうせ職業の話だろ? くだらないね。それか、業績なのかな。特筆すべき業績。しかし、それもくだらない。そんなものがなくたって、何者でもないだなどと言わせなきゃいい。それは暴言だ。自分っていうのは、なろうとする前から、すでになっているじゃないか。ランボーのさ「強気にしろ、弱気にしろ、お前がそうしている、それが強みじゃないか。」て言葉みたいに。幸か不幸かというか、本位にしろ不本意にしろ、それが自分なわけだ。何者かになろうとするから、かえって自分を失うんじゃないのかな。世間でいう何者かっていうのは、たいてい前例のあるものを指しているだろう。そういうものを目指すのは、賢くて、抜け目ないし、ひとつの才能ではあろう。結果を出すだろう。商売をする人の考え方だ。そういう生き方。一方、自分ってものは、好こうが嫌おうが、まあ、とりあえず存在してるんだな。「とりあえず存在してる」って言葉、言い得たな。言い得て妙だ。この自分ってものを、押し殺すのが協調性と言われていた。たしかね。もう、よく覚えてない。誰もそんなこと言わなかったか。なんでもかんでも自分の好き放題に振舞ったり言ったりするのが「なんか違う」ってことは、やっぱり理解できるし、やっぱりそう教わってるんじゃなかったかな。でも、あれ、嘘だよ。

あ、まあ、なんでもない。忘れてよ。変なこと言ったかも。口走ったかも。本当に言いたいことを。おっと。おっと、おっと。 なんやねんこの文章。気持ち悪い。自分みたい。

海底は薄暗くて。もしかしたら真っ暗で。光の届かないところまで降りたんだっけ。なにもないところまで。誰もいないところまで。誰にも見られないように。誰にも見られたくないから。誰にも知られたくない。誰からも忘れられたい。簡単さ。海底に降りる。海底には森があって、そしてこの森がどこにでも繋がっているから、そこからが面白いんだよ。この森には当然(?)道はないんだけど、唯一の進み方というか作法があって、それは迷うことだ。迷わなければ、どこへ行くこともできない。

君のいないところへ行きたい。ゴメン、傷ついた? 安心してよ、たぶん、君には言ってないからさ。え、もっと傷ついた? とにかく、ここには誰もいなくて、のびのびできるよ。誰みたいに振る舞う必要もない。何みたいになる必要もない。ただ自分がいるだけで。世界で最も醜い場所。

詩を書いたりしたんだけど。あと、少し小説を書いたかな。小説を書こうとすると、やっぱり小説っぽいものを書こうとしちゃうというか。あの感覚、かなり悪いんだよな。なんて言うのかな。創造性の反対って感じがする。詩を書こうとすれば、もうちょっと自由になれるかな。まあ、全部、個人的な話だ。こんな話、他人は聞くべきではない。こういう何気ない証言は、思いのほか影響を与えたりしてしまう。読者はやっぱり弱い立場にあるから。だから僕はなにも読みたくないんだ。読まないっていうのが最上の創造的な行為に感じるから。口に出して言ったら、すごい陳腐な感じになった......。もう、どっか消えてくれるか? 自分。

詩を書こうとした時にも、それでもなにか既存のものを再現しようとする感覚はあって。とくに、物語風にするのかとか、自分の独白を入れるのかとか、そういうところは意識してコントロールしようとしていて、それは自然なことではある気がするけど、一方で、なにかどことなく「合わせている」感じがあるような。他人に。みんなの価値観に。こういうものがあれば読むだろうとか、読まれるだろうとか。そう考えるからこそ、書くんだよね。パンを作るのは食べてもらうため。食べてもらうってわかるから作り、売る。灯台を作るのは、それを見る人が一帯に存在するからだ。しかし、僕という人間はどうだろう。僕はなにかのために存在しているか。

たしかに、そのように生きることはできるし、できるもなにも、そのように生きることが普通というか、建設的であり、適応だなんて反抗的な言い方しなくても、社交性とか社会性っていうものだろう。しかし......。

誰も読まなくていい。そう思って書く文章が、最も優れているって知ってたか?(注* でまかせです(笑)) 誰も読まなくていい。これが最強の言葉だった。だって、読まれようとしたら、そういった文章を書きに行ってしまうだろう? そして、読まれるために書いてるのかどうか、それは文章を見れば一発でわかるよな? だって、読まれるために書かれた文章は「不自然に美しい」から。君があんな美しい人間などではないと思っていたよ。こう言わせてくれる文章を待っている。

やっぱり、こういう風な書き方をすれば、極めてオリジナルなものが、それもいとも容易く生み出される。さっき言った、一個前の作文では、さんざん考えて一語一語をひねり出した挙句が、美しいには美しいかもしれなくても、ガチガチにしゃちこばったよそ行きの振る舞い(文体)で、商売したいのならいいのかもしれないけど、やっていることが見え透いてしまって。興ざめというか、ご苦労さんというか。書いてて疲れるものって、たぶん読んでも疲れる。違うかな。

自然に生きるってことは、ものすごく不自然かもね。自然に生きてる人っているかな。じゃあ、これならどうだろう。文章で考える。自然な文章。自然な文章ってあると思う? 思うに、このような書き方をする人は、いる。別な言い方をすれば、このような書き方をされた文章はある。noteでも結構見かける。こういう書き方の文章は、読める読めないがはっきり分かれるというか。こういう書き方をされたたいていの文章は、読めないーー。じゃあダメじゃん。うんーー。でも、なんなんだろう。そうでない書き方の文章って、「悪い意味で作品」というか。


(一旦休憩)

***

あー。いま、少し間を空けて本稿を読み返してみたところ、第一段落はまあまあまともに散文詩になっている。以降、どんどん「ただのエッセイ」になっていった感じなのかな。

自分がどういう文章(詩)を書きたいのか、書くべきなのかわからんなー......。


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