心の奥底でいつも求めている永遠。
ヴェーダーンタ、世間一般でよく呼ばれている名前ではヨーガ哲学的に言うと。
(↑ 京都在住のスワミジが書かれた、ヨガの知識体の本です。)
私は宇宙のソースで、あなたも私もソースも、何も別物じゃないって話があって。
藤井風くんが歌うように、
「私はあなたで、あなたは私」みたいな。
「この宇宙が 教室なら 隣同士 学びは続く」みたいな。
「心の奥底ではいつも 永遠を求めています」みたいな。
こんな発想の世界もあるのだけれど。
この発想って、ソース元とその発想自体が自分に深く根付いていればいる程。
自分も、目の前の個体も、何も離れてないものなんだって、そこに愛を持ってコミュニケーションが出来るのだと思う。
なかなか、難しい話ではあるけれど。
どうしても、自分の役割や、目の前の人の感情や、明らかに見えるものにとらわれてしまうから。
気の入り乱れる、土用ということもあってか。
私の気も、例外なく入り乱れていて。
荒みかけていたんでしょうね、きっと。
Kindle Unlimitedにて見つけた、夫婦仲の本なんぞをダウンロードした。
我が家は、同居人タイプらしい。
でも彼の私に対する対応は、恋人タイプのような気がする。
そう、こうやって。
自分や相手が何をみて、何を感じているかをオープンに話し合えないと。
お互いが認識する距離感にすら、ギャップがいとも簡単に生まれてしまう。
「妻が口をきいてくれなくなった」とか、そんなタイトルの書籍もあるけど。
理解できないこともない、っていう。そんな心情の人がごまんと出てきてしまう。
”私は宇宙のソース”って発想に立ち返ることができると、自分と自分の感情や想いの間に、わずかながらに隙間が出来る。
この僅かな隙間こそが、大きなdetachmentであり可能性なのだ。
決して、選ばれし人にしか出来ない事ではなく。
望めばみんな、その隙間は手に入れられる。
自分を俯瞰して観ることができる。
相手の想いにも、少し余裕を持って向き合える。
人間としてのゴールに向かう同士なんだなぁと思って、暖かい姿勢を持てる。
本気であれば、本気であるほど。
「心の奥底で求める永遠」に、ぐっと近づいていけるのだ。
先に挙げた、読み始めた本の中には、「相手を他人と思って」というものがあった。
その理由は、「甘え」らしい。
家族だから、この距離感だから。
こんなことを言っても、これをやっても大丈夫なはずだし、許してもらえるはず。
そんな甘えを持たずに、切り離してみて、ってことなんだと思う。
「他人」って線を引いて、冷たくしろって事では、決してないんだと思う。
Namasteって手を合わせて頭を下げるように、目の前の事象や存在にリスペクトを持てってことなんだと思う。
それでも、このAttitudeを持つにも。
まずは自分に対して、これが出来ていないと、なかなかこれもまた難解で。
(真似してやりながら身につけてって言う先生もいたけど。)
私は自分にNamah、敬意を称します、愛していますって、最近言えているんだろうか。
と、ふと思った。
フラストレーションを抱える相手に、「認めてくれ!聞いてくれ!!」って。
甘えているのではなかろうか私。と。
先日旅先で仲間に迎えた、チベット仏教のマーラーを使って、ジャパ瞑想をやろうと思う。
自分が自分に優しく出来るように。
そのうえで、周りに優しく出来るように。
自分が望むように、潔く生きられるように。
全体に、Namahの想いを持って。
「相手は他人」と思いながらも、愛を持てるように。
土用明けまで、あと12日ほど。
長いなぁ。。。。
毎日ジャパ瞑想をして。
「土」のエネルギーが高まる時期に、グラウンディングも悪くないかもしれない。
潔く生きるって決めたから。
なるべく「心の奥底でいつも求めている永遠」に、今世で近づくって決めたから。
どんな状況も、どんな気持ちも環境も。
いざ、活かしてみせん。
きっとこういう心境が、「吊るされた男」の心境なんじゃないかと、ふと思った。
はやくDeathっていう生まれ変わりが来て、Temperanceになれるといいな。
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最後の最後までお読みいただきまして、ありがとうございました! 良い息抜き時間になりましたように。