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転機 踏み越えた先

 転機、というものは、否応がなく目の前に飛びこんでくることもあれば、自らそれをつかみにいくときもあると思う。

 どちらにしても、それに対してどう行動するか、どう行動したのか、それが大きく影響してくる。

 私の場合、転機、というものは(それは多くの人もそうであると思うけれど)それなりに目の前に現れて、そのたびに考えたこともあれば、無意識に選んでいたこともあった。

 ひとつ 
 ひとつだけ、思い出深い、大きな転機を挙げるとすれば、障がい福祉にかかわるようになった、ことであろう、か。

 此処じゃない何処かへ、が聞こえてきそうな、これまでの自分を変える、という意味では、それこそ彼岸を越えてその先へ踏み出したような、それほど大きなものであった。

 元来、私は人というものが好きではない。人とのかかわりが、どうにも苦手である。好きではない、苦手ーーというよりは、きっと、おそらく、怖いのだと思う。

 学生時代に人とのかかわりをやめてしまい、ある意味身を潜めて生きてきたくらいには、怖いものがある。

 人というもの、心というもの、それがまるで何かわからないから、怖くて、たまらない。

 そうして、それを知らずに、けれど知りたいとも願い、ものを書いて、考えて、感じていきながら探ろうともしていたし、かえって悩みすぎてわからなくもなったのだけれど、怖い、という印象に変わりはなかった。

 ただーーこれは本当に、私にしてはよく選んだものだ、と感じたのだけれど、いざ大学を卒業する、という段階になって、人とかかわるようなことをしてみたい、と、そんなことをよく思ったものだ。

 転機、であったのだろう。

 そのときの私にはふたつの道があった。
 ひとつに、このまま、ものかき、として、生きていく。
 ひとつに、何かしらの仕事につく。

 そうして私が選んだものは、これまで人とかかわらずに生きて、このまま人というものを知らずに生きていくのはもったいない。人というものを知りたい。人とかかわることをしてみよう。と、いったものだった。

 その中で、障がい福祉に興味を持ったのはたまたまだったのかもしれないが、縁もあったのだと思う。

 私は、障がいと呼ばれるものをお持ちの方とかかわりたいと思ったし、何より、そうした方々とかかわっている方はどんな人たちなのだろう、と興味を持った。

 そうした、職員たちとかかわりたい、というのが、初めだったと思う。

 その転機を踏み越えてから、これまで生きてきているけれど、今ではあのころあんなにもかかわっていないことが不思議なくらい、人とのかかわりに満ちている。

 それがよいことか、そうでないか、そんなことはささいなことであるし、どちらでもよい。

 いまだに、私はやっぱり人を怖いと思うし、わからないものだとも思う。けれど、怖いだけではないし、救いにもなれば、癒しにもなる、ということを知ることもできた。それに、

 与えられるだけではなく、与えることに対する気持ちも、私にとってはとても有意義で、楽しい、よいものである、と。そんなことを教わった。

 笑顔が見られたらたまらなくうれしい。

 そんなことはきっと、その転機を一歩踏み出さなければ知らないことだったであろう。

 目的も動機も不純なまま始めてしまった、踏み越えてしまったものだけれど、あのとき、その転機に対して起こした行動に後悔はなく、むしろよきものとして今でもある、ということを。

 そうして紡がれた縁に助けられてこうしてここにいることを。

 これから先にも、つないでいきたい。

 そう、思っている。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。