今、この一瞬、を生きるとは、どれだけの時間を凝縮し、続いていくものなのだろう。
私は、どこで、間違えたのだろう。
いや、そもそも、間違えてしまったのだろうか。
今となってはもう、何もわからない。
それは、圧倒的な浮遊感であった。
手を差し伸ばしても誰もその手を取ることの叶わないほど、圧倒的な。
それでも私は、おそらく無意識に、その姿勢をとっていた。まるで絵画のようだ、私は外側から自分の姿を見ているとわかるほど、自然なイメージが湧いて出てくる。
こんなに、自分の感覚がはっきりとしていることが、他にあるのだろうか。
私は全身全霊を持って、自分のこと、自分の感覚、自分の身体、自分の精神、そのすべてに目を向けて、耳を傾け、肌に触れ、これまでにないほどの理解を示していた。私は、ようやく、私を見ているのかもしれない。
私は
落ちていく
沈んでいく
飛んでいく
浮かんでいく
深みへ、深みへーー
私はもう、この深い海に沈み、落ちているのか。この深い空に浮かび、飛んでいるのか。それさえもわからず、ただただこの圧倒的な浮遊感に身を任せていた。
もう、どうしてこうなってしまったのかはわからない。それが間違えだったのか、実は正しいことなのか。
私にわかることーー
この感覚こそが、今を生きている、何よりの実感なのだと、わかる。それだけが鮮烈に私を包みこみ、ようやく私は、私を生きていることを、知ることができたのかもしれない。
それは後どのくらい。数瞬後、数時間後、数年後、それとも須臾の間に? 永遠に? 刹那に? 久遠に?
わからない。
私が生きている、この「今」この「瞬間」は、遙かなるときのまたたきなのかもしれない。たまゆらのごとき悠久なのかもしれない。どちらなのかは、わからない。
それでも私の( )意識は、この一瞬の、永い今だけを認識し、誰も手をつかめないと知りながら、手を差し伸べて、圧倒的な浮遊感に身を任せるしかなかった。