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大変なこと

 いつも大変なところに送られてしまう。

 そんな言葉を聞いたとき、あぁ、私はきっとこの人とは話しができないな、と感じた。

 それは、親戚同士の集まりの中、聞こえたものだった。

 ちょうど、弟の奥さんにあたる方で、なんでも介護士として高齢の施設に勤めているらしい……ということが、話しの中でわかったあたり、私は私でもともとその人に興味を持っていなかったのだろう。

 その人の話しぶりはいかにも自分が優れていて、だからこそ大変なところに送られてしまい、疲弊してしまっていること。あまりにひどいところは三ヶ月ほどで辞めてしまったこと。その後も、どこに勤めてもそういう状況になってしまうこと。などなど、まるで悲劇のヒロインでもあるかのような口ぶりに、私はビールを飲みながら閉口してしまう。

 私はなるだけその人の話しに入らないように目をそらしながらも、聞き耳は立てていた。

 弟も一緒になって、実はおれもなんだよ、なんてため息交じりに言っていた。お互い大変だよね、なんて、奥さんと目を合わせながら……。
 親どころか親戚さえも同情でもするように、大変だなぁ、まあ飲め、などなど、慰めているのか酒のつまみにでもしているのか、口々に二人をたたえながら話しを聞いていた。
 そうして、その二人の にやにやとした 満足気な笑み。

 それ自体を否定するつもりもないし、ここら辺の人たち特有の気質でもあるのだとも思う。それ自体が嫌で離れたこともあるし、改めてそれでよかったとも思う。根本的に、合わない。

 大変であることを見せたい、自分ががんばっているところを見せたい、ひいては、それをほめてもらいたい――なのかどうかはわからないけれど、少なくとも、私にはそう見える。

「さっちゃんはどうなの?」

 いつの間にか視線が私に集まり、そんなことを聞かれる。
 にやにやとした視線が気持ち悪い。
 何を期待しているのか、慰めている自分にでも酔っているような、それとも、どうせたいしたことはしていないだろう、という、ものなのか。たしかに、たいしたことはしていないけれど。

「仕事って、そもそも大変なものだとは思いますけれど、楽しく取り組ませていますよ」

 どうとでも捉えられそうな言葉で返答する。
 つまらなさそうに、おじさん連中が「そっかぁ、充実しているんだね」や「恵まれているんだね、いいことだ」なんて言う。
 私はため息交じりに笑みを浮かべながら
 
 そうですね、充実していますよ。
 これまでも、社会人二年目の頭からグループのリーダーが突然退職して私が引き継ぐことになり、みんなが非常勤の中ひとり常勤でしたので、様々な業務にあたらせていただきました。そのときは七時半過ぎから二十一~二十二時頃まで働いていましたね。別の転職先では、入ったとたんに管理者が辞めることを伝えて、引き継ぎ、研修を受けて瞬く間に管理者になったかと思ったら、過去の計画書がそのまま放置されていて監査のために見たこともない利用者様の評価を作成し、頭を下げながら印鑑をもらい受けに行って、何とか間に合わせたこともありましたね。どこも五年以上勤めさせていただきました。とても充実し、恵まれているかと思います。お仕事って、どんなことでも大変なことですが、楽しいこともありますものね。

 一様に静まり返った中、ひとり にこり としながらビールを飲み干し、それではお暇しますね、明日も仕事ですので、と退席する。

 弟も、その奥さんの顔も見なかった。
 どんな顔をしているのか、興味もなかったし、大変さなんて比べるものでもない。それぞれの受け皿も違えば、得手不得手もある。私の大変さも、弟たちの大変さも、どちらも等しく、大変なものだ。

 だからこそ、そんなことをひけらかしてしまうことに、嫌気がさす。……挑発に乗るまま語ってしまったのは、私もまだまだ未熟なものだけれど。

 その未熟さを噛みしめながら、前に進んでいこう。
 ただ、これからの親戚づきあいは、考えさせてもらいたい。

 ひとり 家路に向かいながら、それこそ大変なことなのでは、と、改めて、思った。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。