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服は違和感を生み、問いかける 青木のジャージ

うちのタンスの中には、他人の服がある。たしかに俺の服なのだけれども。

青木のジャージ

服は違和感を生む

服は一種、自分の一番近く半径0mに環境を生み出す装置だ。自分の内とも外とも判別のつかない境界のようなそんな環境を生み出す装置だ。例えば、着ていることを忘れてしまうような服は居心地のいい環境を起こす。気兼ねがないから、そのほかへと自らをやつすことを加速させる。一方で、己の自分観を揺るがすような強烈な環境も生み出すことができる。卑近な例えを言うなら、「男性」として育った男性が女装をしたとき、「大人」になってから学生時代の制服に袖を通したとき。

ひとは居心地のいい、共感しうる環境に身を置くだけでは自分のなんたるやは見えてこない。全てがそうとは言えないけれども、そう思っている。その馴染みやすいものに溶けてしまって境界が薄まってしまうから。ひとは強烈な違和感に身を置くことで、自分のぼんやりとした領域をむしろはっきりと感じることができる、と考えている。別にどっちがいいとかの話ではない。違和感にてらされて、その違和感が立ち上がった自分を意識してなぜを問う。その違和感はひとを強くする。それを原動力として、問いを立てることができ、仮にでも答えをこさえようとするから。岡本太郎はアートに満ちたヨーロッパから日本へと帰国した。

俺の名前は秋吉成紀。決して青木ではない。着るたびに自分は青木ではないと当然思う。が、服はお前は青木だと名指す。一つ違和感を生み出す。この関係性が楽しくてしかたない。知らない人からしたら、まぁ多分を俺を青木さんと思うのかもしれない。俺は違うと頑ななのに、他人はそうだろうと考える。そんな思惑が生まれる環境をこの服はつくりだす。

ところで、自分は高校の頃から服に興味を持つようになった。好きになってからしばらく4.5年は夏場のTシャツ以外はずっと、ほとんどシャツしか着てこなかった。「大人っぽさ」への憧憬だと思う。大学2年、クルーネックのニットを下にシャツを着ないで着たときをよく覚えているほどに。プルオーバーのスエットなどを気軽に着られるようになったのは最近ようやくだ。とにかくそれまでの自分では考えられなかった。青木のジャージはそんな過渡期に出会った。プルオーバータイプのジャージ。スポーツテイストを着ることもすくない自分がジャージなんて。俺にしかわからない、俺と長く親しい人にしかわかえりえない当時との対比でのみ生まれる違和感。そしてまた違和感。楽しい。

他人の服はエロい

他人の服を着ることが好きだ。兄からのおさがりを大切に着ているのもそう。いままでの自分では気づけない違和感を与えてくれるから。俺はネーム入りの服をほかにもいくつか持っている。片山と長谷部と山崎。そんな嗜好がある。

いつか、地元の友人3人と服をいくつか交換した。ちなみに片山のジャケットもそのときもらったものの一つ。自分が着てこなかったタイプの服が多い。違和感だ。でも「なるきらしい」と友達が言う程度には、着てみると俺っぽさもある。あいつが着てたらこちらも当の本人も違和感を覚えないのに。服のおもしろさが現れる。結局大事なのは服のデザイン性どうこうよりも、着る主体がイニシアチブをとるという事実だと思う。それを強く意識できるから他人の服を着ることが好き、でもある。

青木がどこの誰なのかかけらも知らない。おそらく、というか間違いなく学校の指定で購入したであろうジャージ。体育の授業で着たのだろうか、青木のジャージ。そのわりには状態がいいから、あんまり着てなかったんじゃないか、青木。きっと卒業かなにかしてそのジャージが必要でなくなって手放したのだろうな、青木。よく売ろうと思ったな、青木。想像力の源泉はこの眼前にあるジャージでしかない。青木が着ていたであろうことくらいしかほとんどわからない。

そのうかがい知れないなにかの過去をこのジャージは身につけている。俺の記憶にはその過去はもちろんない。きっと青木の、青木の記憶に結びついた、彼の学生生活に仕向けられた服。でも、青木のジャージが示せる青木の過去は「青木」の刺繍だけだ。

誰かに結びついた服だった。俺には全て明らかにされない、そんな事実がほのかに香る服。全てが明らかにされないけれども、その奥に秘められているものがあるという事実。エロい。そんな服が好きだ。

服は問いを残す

おもしろいものが好きだ。いままでなかったような、ただでは転ばないような物事・考え方に惹かれてとまらない。お笑いが好きなのは笑えるという「おもしろい」よりも、芸人さんが提出する世の中へのいままでなかった眼差しにこそ惹かれているから、といまではそう解釈している。

自分はファッションがたまらなく好きだった。自分が知らないスタイルが沢山ある!モードやファッションの世界に夢を見た。でも天邪鬼、「ファッション」の仕組みと可能性の領域を知るほどに、もうおもしろいは、「思いの外お思いの外」は少なくなってきた。ただでさえ最初期から、一筋縄ではいかない服を着てきたつもりだったが、それでも所詮「ファッション」の近所の範囲でしかなかったように思える。自分のその程度の考えを大きく超える服屋に出会う。たんぽぽハウスだ。(画像はたんぽぽハウスの公式サイトから)

たんぽぽハウスは、またいずれ詳細に触れ、しっかりとラブレターをしたためるつもりだが、あそこにはこの世の全ての服がある、そう思える。学生時代イベント毎に着たであろうクラスTシャツから「BURBERRY(バーバリー)」のトレンチコートまで。服として存在するだけで認められる服のユートピアとも、服でしかないと判を押す服のディストピアとも思えるほどの服、服、服。それまでの自分の観念を揺さぶるに十分すぎるほどの服、服、服。服ってなんなんだろう。ゲシュタルト崩壊。全てが違和感。こんなにも服があるのか。おもしろすぎる。「ファッション」はいまではあまり好きではない。でも、服はいままで以上に好きになった。

そこに青木のジャージはあった。値段は108円。服の価格とはなんなのだろう。ブランドのネームが入るだけで爆上がりもするし、しっかりとしたつくりをしているにもかかわらずひくほど安いこともある。青木のジャージはペットボトルの水程度の機能性しかないのか。そうは思えない。

服の価値ってなんだろう。高ければ意義があるのか。安ければ存在する価値もないのか。高い服の方が安い服より価値があるのか。着心地のよさ、動きやすさに気に入った青木のジャージ(ジャージなのだからそれはそうだろうけど)は、かのブランドショップに吊るされたあの服よりも価値がないんだろうか。そうは思えない。服の価格とは、服の価値とはに答えられるほど、まだしっかりとした考えを示すことができない。それでも自分はそうじゃないと思っているとひとまず言っておきたい。

服のおもしろさをいつでも再確認できるように、それらの問いを保留させておくためにも、青木のジャージは持っておきたかった。

服は自分を示す、だから

服を着ることは極めて私的な営みの一つだ。同時に、自分という存在の外見・外を操作する意味で社会的な営みでもある。社会的な面は強調されすぎるほどに強調されており、ビビって他人の目を気にして、縮こまるような服を着てしまう場面をよく見てきた、一概には言えないが。それに対して、「他人の目なんか気にすんな」、みたいなアンチ。「個性的」な服を着る人もいる。なんだかどちらもおもしろくない。私的な面に振りすぎるもおもしろくない。私的に極振りするでも、社会的の極に寄ろうとするのも違う。同時にその両極兼ねてこそ、そのアンバランスに身を任せてこそ服を着るのはおもしろい。そう考えている。

お前は自分の違和感を楽しむために、自分のためだけに青木のジャージを着ているじゃないか。さっきの話と違うじゃないか。待て。そうじゃない。

ネーム入りジャージを学校の外で、私服の世界で、「ありえない」場面で見かけたら違和感を覚えるはずだ。それは服の社会的な面を自明のものとしてひとまずにしているからくる考えだと思う。服を着る場面とは?また問いを残す。自分へも他人へも同時に。

服を着ることは自己表現らしい。一部を拾うなら、自分の属性を存分に示す。学生服などの制服を筆頭に。自分何たるかを示す手段らしい。先にも言った通り、他人は俺のことを青木だと解釈するかもしれない。でも、表にあるそれは俺を一切示さない。服の自己表現としての手法を逆手にとってみる。その人であると最もあからさまにするネームを逆手にとってみる。

服で自分のアイデティティーをそのままに示す、のではなく、自分のアイデンティティーではないものを示すことで、かえって秋吉成紀を浮かび上がらせる。お前には暴きえない事実がここにはあるんだぞ。実は違うぞ、外にあることだけではわからないだろう。青木のジャージを着るたび、露出狂の快楽が渦巻く。たしかに一見ではわからなくとも、俺という誰かが青木と記されたジャージを着ていることはわかる。それがそのままの意味であるとは言っていない。表層即ち深層のそれではない。俺はこの服を着ることで、ひねくれつつも自分を外に向けて置く。

ひねくれつつも社会に自分を提示している、つもり。同時に外へ向けて、俺もまだ答えきれない問いを、違和感を置いてみている、つもり。青木のジャージを着ている俺は、ある意味で俺のひねくれた思考を示している。この服を着ることは自分のためだけに着ているわけではない、つもり。

ところで、さっきいつものカフェでいつも会う中学時代の同級生おくやんに途中の段階を見せてみた。文章を読んでいると、「青木」がブランドのように感じた、と言っていた。もちろん、「青木」はブランドではない。青木のものだ。そういえば、バイト先に着て行ったとき、「それどこの(ブランド)?」と社員さんに聞かれたこともあった。ちがう。青木のものだ。刺繍があからさますぎてブランドに思えてくる。服のブランドが重要だと浸透している世の中、ブランドものを着るもんだと思っている。青木のジャージは、ブランドとは?の問いでもあるような気がした。

違和感、問いとして

青木のジャージは違和感だ。内に対しても、外に対しても。そして、違和感は問いを残す。内に対しても、外に対しても。青木のジャージはそんな服だ。

青木のジャージは揺らがせる。服の価格を、服の価値を、過去の事実を、服を着る場面を、通説を、自己表現を、表層と深層を、ブランドを、服を着るという営みを…秋吉成紀を。問いかける。

自分なりの答えをこさえるまで、服のおもしろさを確認し続けるために、これからも着る。

いや考えすぎだろ、屁理屈だろ。そんな理由で着てないだろう。うるさい。本当だ。そういう考えをこねくりますのが好きなんだ。服が好きなんだ。

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