距離を軸にした世界観
今日も今日とて、松葉舎で得た気づきを言語化してみます。
先日の松葉舎では塾長の江本さんからイスラエルとパレスチナの問題についての講義がありました。
イスラエルとパレスチナの問題と言っても、どちらが正しいとか間違いとかを話すわけではありません。もちろんなぜイスラエルとパレスチナの間で今回のような確執があるのかということを歴史的に遡って解説する時間が前半にありましたが、それを議論するのが主題ではありませんでした。
むしろ、「イスラエルとパレスチナ」という私たちから遠い国で起きた出来事がほとんど時差なく我々に伝わり、主要な関心事になってしまうことの意味についての話題が主となりました。
ウクライナ戦争のときもそうでしたが、世界的なニュースは瞬時に私たちに情報として届いて、それに関する話題で持ちきりになってしまいます。まるで、今はそのことについて調べ、考えることこそが正しい行いだ、とでも言うかのように。
アテンション・エコノミーという言葉があります。
要するに人々のアテンション(元の意味は「注意」。今は「関心」「注目」というような意味で用いられる)を集めることが経済活動において重要視されているということです。
これは政治の世界でも同様の状態を呈しており、アテンション・ポリティクスとでも言うような状況となっております。ウクライナ戦争においてゼレンスキー大統領の振る舞いはまさに世界のアテンションを獲得して、自国が有利になるように国際世論を動かそうとするものでした。
今のイスラエル・パレスチナの問題もまさに世界のアテンションが集中しており、各国はこの問題について態度を決めないといけないかのような空気が醸成されています。しかし、世界では他にも様々な紛争・貧困・飢餓などの問題はあり、イスラエル・パレスチナの問題が生じたことでその他の問題へのアテンションが下がり、一種の空白状態となっています。
アテンションを集めることが、政治的に動きを作るためにも必要になっているのです。
今回の授業では、私たちはこうしたアテンションを集めるさまざまな事柄について、どのような姿勢をとるべきかが話し合われました。
今回のイスラエル・パレスチナの問題など、世界的なニュースになることは深刻度が高い問題ばかりです。しかしそれに比して、私たちがその問題に対して取れる行動は非常に少ないです。悲惨な情報に胸を痛めることはあっても自分がそれに対して取れる行動の少なさに無力感を感じることもあるでしょう。
対して、先に述べたように、一カ所にアテンションが集まることで、その他の問題についての人々の関心は下がります。私は環境問題に常に関心があり、環境問題も日本や地球上に人間が住めなくなるかもしれないという重大な問題を抱えている事柄ですが、それに対する関心は今は相対的に下がっています。
現実的に私たちのアテンション(注目)を避けるリソースは限られている中、どこにどれだけアテンションを割けばいいのでしょうか。
それについて、塾長の江本さんが提案される一つの態度は、自分の身体との距離感を軸に考えてみるのはどうか、ということでした。
例えば、私の場合だと、自分の近しい地域の環境改善活動の方が、外国の国際紛争よりも身近な問題であるため、私のアテンションをより多く割くに値する事柄と言えるかもしれません。
私の仲間が住んでいる集落に溜め池があります。その溜め池は昔ほど管理されておらず、荒廃しています。
広島県では数年前の豪雨災害で溜め池が決壊し、被害が拡大したという事情があるため、溜め池の廃止が相次いでいます。しかし溜め池は適切に管理されれば周囲の自然環境も良くなり、土砂災害のリスク低減にもつながります。
そのため、溜め池の安易な廃止よりは適切な管理を地域でしていくことが大事だと考えた私と仲間たちは、その溜め池の環境改善を行うことを企画しています。その環境改善の手始めに講師を招いてワークショップを12月に行おうと企画しています。
その企画を推し進めることの方が私にとって身近であり、私が直に関われる事柄であるため、私のアテンションをより向けるにふさわしいと言えるのではないでしょうか。
一方、俯瞰的な視点で見れば、多数の悲惨な犠牲者が出ている国際紛争と一地域の溜め池の管理とでは、問題の深刻さが違う、とも言えるでしょう。「ガザ地区ではたくさんの人が殺されているんだぞ!」と言われれば、思わずそちらの問題を取り扱う方が「正しい」と思ってしまいがちです。
これは、「俯瞰的な視点」「客観的な視点」というものは、いわば思弁的な視点であるため、自分の身体と対象との距離を無化してしまうからこのような比較の「正しさ」が生じるのだと思います。
しかし、ここでは距離を軸にした考え方が「正しい」と言っているわけではありません。
そうではなくて、距離を軸にした考え方の方が生きやすいのではないか、という話です。つまり、どの考え方・態度を選択するかによってその人の生き方が変わる、という話です。そして、どういう生き方をしたいか、という問題でもあります。
自分との距離を軸にした生き方を心掛けるなら、自分が行動し、働きかけられる事柄により多くの自らのリソースを割けます。リソースを多く割けるなら、その事柄が進展する可能性は高くなるでしょう。そしてその事柄が進展したなら、自分が世界に関わり、世界を良くしていける、という実感を得ることができます。距離が非常に遠い国際問題にアテンションを割いても、無力感しか得られないかもしれないことと対照的に、です。
繰り返しになりますが、これはどちらの態度が正しいか、という話ではありません。また、国際問題に関心を寄せる必要がない、と言っているわけでもありません。
先ほども述べたように、自らの関心を寄せられる量というのは有限なので、どこに自分のリソースを割くかというのは重要になります。そうであるなら、自分が世界に働きかけられる領域によりリソースを割いた方が、「自分が生きやすい」世界観で生きられるのではないか、という話です。
ここまでは江本さんの講義とそれを受けての塾生とのやり取りを私なりにまとめた内容です。
そしてこの話の流れで、ある塾生から、以前松葉舎にゲストでいらっしゃった森田真生さんがおっしゃった話から想起して、自分が身近で行った行動が世界につながる感覚を養いたい、というような発言をされていました。
例えば目の前で転んでいる子どもに手を差し伸べることが、巡り廻ってイスラエル・パレスチナの問題につながる、と揺るぎない実感として思えること。そう思えるようになりたい、と話されていました。
それを受けて江本さんからも、各自が自分の持ち場を保って小さな網を張っていくことで、それぞれの小さな網が重なって行き、やがて大きな網となり、時間差でイスラエル・パレスチナにも届く、という世界観を提示されました。
私はこの話を聞いて、「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」(『山家学生式』)という最澄の言葉を思い出しました。最澄はこの文章の前段で仏道を志す人を国宝だと言っているので、これは仏道を志し、一人一人が己の役割を果たすことが社会全体を照らすことにつながるので、そのような人が国宝である、という意味でしょう。
仏道云々は置いておいても(最澄にとっては仏道こそが大事なのでしょうが)、一人一人が己の役割を果たすことが全体の利益につながる、という話に、私は説得力と憧れを抱きました。
江本さんの提示された世界観は「一隅を照らす」の世界観と合致しているように感じました。
これも距離を軸にした考え方と同じで、「一隅を照らす」世界観が「正しい」という話ではありません。これもまた、どの世界観の方が「自分が生きやすいか」という問題です。
自分が身近で行っている行動が、世界の遠くで起きている悲劇にも良い影響を与えると思える世界観か思えない世界観か。どちらの世界観を生きるかによって、その人の生き方、生きやすさが変わると思います。
そして、「一隅を照らす」世界観は全く根拠のない、突飛な話であるとは私は思っていません。
以前、環境改善グループの話し合いでKさんが言われていた「全ての存在には必要な役割がある」というお話は、Kさんが環境改善という形で自然と関わり合うことで、全ての存在が互いに関係し合っていることを実感したことが基盤になっています。「全ての存在が互いに関係し合っている」なら、地域の溜め池を改善することが、巡り廻ってイスラエル・パレスチナにも届くことはあると思っています。直接的にではなく、その間にいくつもの関係性が仲介されるのでしょうが、いつか届くと信じています。いや、信じられるようになりたいと思っています。そして「信じる」よりも「実感できる」ようになりたいと思っています。
世界のあらゆるニュースが同時に全世界に共有されてしまうことで、逆に自分の身近なところから遊離してしまい、地に足をつけることが難しくなってきた現代において、自分がどのような生き方をしたらいいかの良い参考をいただいた授業でした。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!