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「見てもらいたい」という欲求

 私の気づきを深めてくれる場になっている松葉舎。先日の授業でも気づきが深まるお話をいただきました。

 松葉舎では参加した塾生がそれぞれ近況報告や最近の気づきを話す時間があるのですが、その時、私はやそらさんと話して得た気づきについて話しました。

 概ね記事に書いたことを話しましたが、要するに自分を傷つけるような心の働きが私の中にある、というような話をしました。

 私がその話をした時、「セルフネグレクト」と「精神的自傷行為」という言葉を用いて話をしたのですが、私の話を聞いて塾長の江本さんから、「今の髙橋さんから精神的自傷行為をしているような印象を受けない。noteなどで見られる内省的態度はセルフネグレクトと真逆な態度で、それが良い影響を与えているのではないか」という御指摘をいただきました。

 また、別の塾生が参加したワークショップが人と一緒にいて心地良い距離を探るようなワークをしたという話題の時、江本さんから「教育と言うけど、子育ては教えもしないし育ててもいなくて、子守りという感じがしている。子どもに何かを教えようとするより、子どもを見守っていることが大事に思える。子どもも一人で遊んでいる時に、親に何かをしてもらいたいというより見てもらいたいと思っている。親が見ているところでの一人遊びと本当に誰もいない時の一人遊びは違う」というお話が出ました。

 江本さんから子守りのお話が出たとき、私の中で鬱の時のセルフネグレクトとnoteによる内省の対比と「子どもは見てもらいたいと思っている」という話がどこかつながった気がしました。
 端的に言うと、「私は見てもらいたがっている」ということに気づきました。

 江本さんの子守りの話を聞いた時、ふっと情景として小さい子どもが一人遊びをしており、それを江本さんが少し離れたところから見守っている情景が目に浮かびました。その見守られながら一人遊びをしている子どもの姿が、私に重なって見えました。

 その気付きを得た後、私は姪っ子と甥っ子と遊んだ時のことを思い出していました。私は姪っ子や甥っ子と遊ぶことがたまにあります。彼ら彼女らは私と直接遊ぶことも勿論せがんできますが、自分がやっていることや遊びを私に見てもらいたがることがあります。「見て見て~」と言ってけん玉をしているところや車のおもちゃで遊んでいるところを見せてくるのです。
 「見て見て~」と言ってきた時に、基本的に彼ら彼女らは私に何らかの具体的なリアクションを求めていません。ただ見てもらいたいのです。そしてこんな風に自分たちは遊んでるんだと私に教えたがります。
 江本さんも子守りの話の時、大人が見ていることで子どもが安心する、ということを仰いましたが、それは姪っ子甥っ子にも共通する態度で、私が見ている、ということが彼ら彼女らがのびのび遊ぶことの安心感になっているように思えます。

 そこまで思い至った時、姪っ子たちの「見てもらいたがる態度」というのと同じ根のものが、私自身の心に確かにあることに気づきました。気づいた時は、私が子どもの姿で一人遊びしている姿が心に浮かびました。
 どうも私の心の奥底には「見てもらいたい」という欲求が強くあるようです。それはかつての私が「寂しい」と感じていた気持ちと根は近いかもしれません。

 私は誰に見てもらいたいのか?ということを観察しようと思いましたが、今はまだよく分かりませんでした。推測できることはありますが、それはまだ確信できるものでなく、思い込みの可能性があるので、それについてすぐに結論を出そうとせず、引き続き自分の心を慎重に観察する必要があると感じています。
 しかし、「誰に」というところを抜きにしても、内省という態度は少なくとも私が自分自身を見る、「見守る」態度につながるのではないかと思いました。そしてその態度は、私自身の「見てもらいたい」という欲求に何かしらの影響を与えるのではないかと思いました。

 鬱の時に最も顕著だった「セルフネグレクト」の態度は、まさに自分自身を放置し、大事にしない態度でした。それは姪っ子たちが「見て見て~」と言ってくるのを無視・拒絶するような態度です。
 しかし、今主にnoteで行っている自分の心を徹底的に言語化しようとする態度は、セルフネグレクトとは真逆の態度です。私の心の「見て見て~」をちゃんと見ようとする態度です。
 鬱の時のセルフネグレクトが精神的自傷行為につながったのと逆に、今の内省的な態度は自分の心を見守り、「見てもらいたい」という私自身の欲求を受け止めることにつながるのかもしれません。最近の私は心がnoteを始める前より安定している感覚がありますが、それは自分の心を見守る態度が少しずつできてきたからかもしれません。

 また、江本さんから、私の話の中で自分の心の態度を表現するときの言葉のグラデーションがあったことの指摘もありました。具体的には、私が話した時に「自傷、自虐、卑下、謙遜、受容」というような言葉を使いました。並べてみたら分かるように、左から右に行くにつれてセルフネグレクトの度合いが下がり、見守りの態度に近づきます。自分の心への態度が右側に移行していくことが望ましいのですが、それらは段階的な違いがあるという指摘でした。
 自己受容において段階的な違いがある、という指摘はやそらさんとのスペースでもありました。スペースの中では、やそらさんは「和解」ということをゴールとして考えているが、一足飛びに和解のフェーズには行けないから、その前段階として「赦し」というフェーズがあるのではないかという指摘でした。
 私はついつい一発でなんでも解決したがってしまうので、段階があるということを認めることは大事だと思いました。一気にゴールまで行こうとしてしまうと、それができないとき「ダメだ……」と落ち込んでしまって進めなくなってしまいがちなので。


 私の中の「寂しい」という心と「見てもらいたい」という心の根にあるものはかなり根深く私の心にあるようです。この根を探して向き合うことが私の人生においてかなり重要なことになるように思いました。


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 最後まで読んでくださりありがとうございました!