私の中の「寂しい」という気持ち
私は小さいころ、無性に「お母さんに会いたい」という気持ちが生じる時があった。保育所にいる時や、友達と外で遊んでいる時や、姉と留守番をしていた時だ(両親は共働きで夜も遅かった)。
その気持ちが出てきた時は、居ても立っても居られなくなり、泣きたいような、胸のあたりがスカスカになるような、何とも手応えが感じられない居心地の悪い気分になっていた。
でもある日、家で母と一緒にいる時も「お母さんに会いたい」という気持ちが生じた時があった。その気持ちが生じたときはびっくりした。お母さんは傍にいるのに、それでも私の中に「お母さんに会いたい」という気持ちが浮かんできたからだ。
だから私は、子ども心に「この『お母さんに会いたい』って気持ちは、本当の意味で『お母さんに会いたい』って気持ちじゃないんだな。なにか別の気持ちなんだな」と思った。
それからかなり時間が経って、大学を卒業して社会人になって少しした頃、精神科医の名越康文先生の本を読んでいて(何の本かは失念した)、「寂しさ」について書かれている文章があった。その文章がどんなものだったかは忘れたが、それを読んだときに私は「あ、子どもの頃感じていた『お母さんに会いたい』という気持ちの名前は『寂しい』だったんだ」と気づいた。「寂しい」という感情と言葉が一致した時だった。
もちろん、通常の言葉としての「寂しい」はそれまでも使ったことはあったし、意味も分かっていた。だけど、『お母さんに会いたい』と私が呼んでいた感情は、普通の生活で感じる「寂しさ」とは違う、もっと深く、もっと私を焦らせ、居ても立っても居られなくする強烈な感情だった。
その感情が「寂しい」という言葉と結びついた時、自分の中で「寂しい」という言葉に対する解像度が上がった気がした。他の人が「寂しい」という言葉を使う時、そこには私が感じるほどの強度の感情が生じているのかもしれない、と思えるようになった。
私が感じた意味での「寂しい」には、「欠乏感」「欠落感」みたいなのが強く含まれていた気がする。それを埋めたい、という気持ちがあった。そしてその時の無意識の前提として、「その欠乏感・欠落感は外から何かを埋めると満たされる」というものがあって、そのため「お母さんに会いたい」という風に感じられたのだと思う。お母さんと一緒にいることでその欠乏感・欠落感が埋められると思ったのだろう。
でも実際には、母と一緒にいる時にも感じることがあり、「なんじゃこりゃ」と思ったということだ。
実はスカトー寺で修行した時にもこの「寂しさ」にちらっと触れたことがあった。その時、なんとなくだけど「あ、これは外からの何かで埋められるものでは無いな」という直感が働いた。「これは私自身が決着をつけるべき問題だ」という直感だ。
残念ながら、その時は決着をつけられるところまでは行けなかったが、その問題意識を持つことはできた。
ところで、この「寂しさ」はスカトー寺での修行までは外からの何かで埋められると思っていたので、私はその寂しさは恋人ができたら埋められるのではないかと思っていた。かつて母に求めていた役割を異性に求めたのだ。だから私は、私を受け入れてくれそうな人を好きになったような気になっていた。もちろんそれは本当の意味で「相手を好きになる」という気持ちではなく、ただ「私の欠けたところを埋めてくれ」という欲求だった。だからその欲求から来る行動は私になんら益をもたらさず、逆に苦しみを増すばかりだった。
こんな風に「寂しい」という感情の奥にあるものに気付いていなかった時は、そこから派生する欲望・欲求に振り回されていた。
今も「寂しさ」問題は解決していないので、派生する欲望・欲求は生じるが、それですぐに「彼女を作らないと!」みたいに駆り立てられないで済むので、ちょっとは前進したのかなと思う。
私の中で「寂しさ」というのはかなり根が深い苦しみで、だからこそ「寂しさ」とちゃんと向き合えてその感情と和解できたなら、私が抱いている苦しみの大部分は解消するのではないかと思っている。
瞑想はその感情との和解に非常に有効であるという感触があるので、瞑想により取り組みたいという意欲が増している。
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