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受け取り手の解釈に委ねる表現

 先日、またまた無銘さんのスペースにお邪魔しました。

 いろいろ刺激的な対話でしたが、今回の記事はその中で特に大きな気づきについてです。

 スペースの後半で、人に何かを伝えることについての話題になりました。
 その時、無銘さんは以下のようなことをおっしゃいました。


 何かを提示するということは大事だが、提示するものを自分の枠の中に収めたくない。受け取る側の枠において理解してもらえばいい。自分が「こういう枠で理解してください」と制限することで逆に伝わらなくなる可能性もある。だから、一旦提示したものは、そのあとそれをどう料理してもらってもいいと思っている。


 私はこれを、自分の発言を自分の文脈でのみ理解するように強いるのではなく、その発言を聞いた人がその人の文脈において自由に受け取って理解してくれればいい、という風に理解しました。

 私はこれを聞いて軽い衝撃を受けました。それは、私は無銘さんがおっしゃることと真逆のことを今までしていたからです。

 私は自分が何かの意見を述べる時は、自分の中で何らかの筋道があって、それに沿って発言しています。だから、私の発言を聞く相手に「私の考えたこの筋道において私の考えを理解しろ」という態度を要求していました。
 私の今まで書いたnoteも同様で、「私はこういう筋道で考え、こういう経緯でこういう思いを抱いたのだ」ということを一つ一つ書いていました。それは「私の述べていることを私の文脈において理解しろ」と読み手に強いる文章でした。

 しかし、無銘さんは「自分の文脈」というものに拘らず、相手にとって必要な文脈において受け取ってもらえればいい、という態度でした。
 そしてその話を私が聞いて、「たしかにその方が良いな」と思いました。
 何が「良い」かと言えば、無銘さんのスタンスの方が結果としてより多くの人にとって有益な表現になると思ったのです。

 無銘さんがおっしゃるように「私の文脈において理解しろ」という態度だと、自分の表現の受け取り方は一義的に決められてしまい、それ以外の受け取り方はできなくなります。そうであれば、「私の文脈」というものが共有できる人にしか届かない表現になってしまいます。
 しかし、「受け取り手の自由に理解してください」というスタンスであれば、「私の文脈」から外れた解釈であっても、受け取り手にとって必要な文脈において必要な物をそこから汲み取ってもらえるので、より広く届く表現になります。
 そのため、受け取り手の自由に任せる表現の方がより有益だと思ったのです。

 ただ、ここまで書いて思いましたが、今までの私がいくら「私の文脈において理解しろ」というスタンスで発言したり文章を書いたりしたところで、受け取り手がその通りに理解するとは限らないな、と思いました。
 というか、そもそも私が文章を読むとき、書き手の意図に沿った解釈をしているかどうかが怪しいです。書き手の文脈ではなく自分の文脈において理解していたような気がします。

 ということは、私の意図がどうであれ、書いて世に出してしまった文章は受け取り手の自由と言うことになりますね。今気づきました。
 それを今まで私は「自分の文脈で理解させよう」と無駄な努力をしてきたわけですね。なんと滑稽な。
 ただ、「書いて世に出してしまった文章は受け取り手の自由」という意識が頭の片隅にでもあると、少し文章の書き方が変わるようにも思いましたので、この気づきはやはり私には必要であったように思います。

 ということで私はこれからも私にとって理解しやすい文章を書いて、受け取り手の方々には自由に受け取って理解していただければいいと言うことが分かりました。ちゃんちゃん。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!