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羊を死なせる結果を引き受ける

 先日記事に上げた内容について、松葉舎の授業でも話をしました。

 その時いただいた意見で、私が思っていなかったような視点をいただきましたので、感じたものを言語化してみます。

 なお、簡単に上記記事の内容をまとめると、ある人がボイスチェンジャーで声を変えて話しているのを聞いた時、私が反射的にその声を不快に思い、その不快の感情が相手の話を否定的に捉えるように作用したことに気づき、私が快・不快の判断を話の内容の正否より優先させていることに気づいた、というものです。

 それについて塾長の江本さんから次のような話をされました。 
 アントニオ・ダマシオという神経科学者によれば、そもそも人間は身体的な反応を元に意識的な判断を行っているのだそうです。
 どういうことかというと、自分の身体的な反応、例えば緊張してしまうという自分の身体反応を脳が知覚して、そこから「この人の話を聞いて身体が緊張しているということは、この人の話は信用できないということだ」という判断を作っているということです(ただし、ここまで言語的な理解の順序ではなく、身体反応から瞬時に意識的判断を導いているのだと思います)。つまり、まず身体的な反応が先にあって、意識的な判断はその身体的反応を脳が解釈することで発生するものだ、というのです。
 この仮説においてもっとも有名な事例は「吊り橋効果」と呼ばれるものです。
 おそらく多くの読者の方も御存じだと思いますが、吊り橋効果とは「恐怖や不安で心拍が高くなっているときに出逢った異性に対して、ドキドキの原因は、相手への恋心だと勘違いする効果」のことです。
 ただし、アントニオ・ダマシオの説を採用するなら、吊り橋効果は一概に「勘違い」とは言えないことになります。「心臓がどきどきする」という身体反応は同じであり、「恐怖によるもの」と解釈するか「相手への恋心」と解釈するかの違いに過ぎないのであれば、それ(心拍の上昇)の原因がどちらであるかは必ずしも自明ではないからです。

 この例から江本さんが伝えたかったのは、私が「相手の話を話の内容ではなく快・不快によって決めてしまった」ということを否定的に語ったことに対して、「いや、そもそも人は快・不快のような身体的反応から判断を組み立てていくものだから、そのように否定的に捉える必要もないのではないか」という別の視点からの捉え方だと思いました。

 また、別の塾生から「快・不快にもレイヤーがあるのではないか」という話題もありました。経験から来る「快・不快」もあれば、生存に影響する事柄であるから感じる「快・不快」もある、という話です。

 例えば、人は自分に害をなすようなものを食べると苦味を感じるという仮説がありますが、その仮説に従えば、あるものを食べて「苦い」という不快の感情を抱くことは、自分の生存に影響する本能的な反応ということになります。この場合、自分の生存に影響する本能的な反応としての快・不快の反応は排斥すべきものではなく、むしろ従った方が良いものだと言えます。
 今回、私がボイスチェンジャーで声が変わったことに感じた不快感が単純に私の後天的に形成された好みによる不快であるのか、本能的な反応なのか、あるいはそれらとは違う別のレイヤーに属する反応なのか。私はボイスチェンジャーの声に不快感を感じたことを否定的に捉え、その判断を排除しようとしていたけど、そもそもその不快感による判断を排除すべきかどうか、もう少しちゃんと吟味してみてもいいのでは?という問いかけだと受け取りました。

 それとは別に、江本さんからは「判断」という話題から続けて、「普遍的な倫理を全ての事柄に当てはめて判断するのではなく、自分の個別的な倫理を普遍化する」という言葉を紹介されました(誰かの言葉として紹介されていた記憶がありますが、誰の言葉であったか忘れました)。
 この話は以前、松葉舎の授業にて取り扱った「牛を救って羊を死なせる」話につながります。

 「牛を救って羊を死なせる」の話の内容を簡単におさらいすると、中国の昔の逸話です。

 ある国の王がいました。その国では儀式のため牛を生贄に捧げるところだったのですが、王が牛の「もー」という鳴き声を聞いてその牛を哀れに思い、その牛を生贄から救ったそうです。しかし、儀式のために牛の代わりに羊が生贄になりました。
 客観的に見ると、王が牛を救ったところで羊が代わりに死んでしまっているのなら、結局生贄で死んだ命は救われていないから意味がないではないか、と言えます。
 しかし、「牛を救っても羊を死なせるなら意味がない」という判断だけでは「ではどういう行動を取ればよいのか」は分からないため行動にはつながりません。客観的な立場から「正しい判断」「絶対的な倫理」を探し、そこから行動を行おうと思っても、現在のように複雑化した社会では絶対的に正しい判断というものは望めません。ある立場から正しい判断と思えるものも、別の立場から見ると非合理的な判断であることはよくあることです。
 だから、例え羊が死ぬという結果につながったとしても、自分(王)にとって身近であった牛を助ける、という行動から倫理を打ち立てていくことが肝要である、そうした身近なところから倫理を打ち立てていき、より普遍的な倫理を築いていくというのが以前の授業の趣旨でした。


 相手の話をどのように受け取るのかということについて、私は今回「自分にとっての快・不快」という個人的な基準で判断したことに後ろめたさを覚えました。それよりも「相手の話の内容の正否」などのような客観的な基準で判断すべきではないか、と思っていました。
 しかし、客観的な基準で判断しようとすることは、上記の話につなげると「牛を救って羊を死なせたなら意味がないではないか」という視点で考えることになります。
 客観的で絶対的な基準があり、個別の事象をその基準で判断することができる、という前提があるからこそ「牛を救って羊を死なせたなら意味がないではないか」という視点は成り立つのですが、先ほど述べたように現在のように複雑化した社会において、たった一つの絶対的な基準によって全ての事象を判断することはできません。
 たった一つの絶対的な基準がないからこそ、「自分にとって身近だった牛を救う」というような個人的な基準から始めることに意味があるのです。
 そういう意味において、私が「快・不快」という非常に個人的な基準で判断するということにも意味があるのではないか、というのが江本さんの上記のお話の意図であると思いました。
 
 私は「自分にとって身近な牛を救うという選択をすることで、どこかで代わりに羊を死なせてしまうのではないか」ということを恐れていたのですが、それについて江本さんは「(牛を救うことで)羊を死なせることにはなるでしょう」と答えられました。その上で、「羊を死なせてしまっているかもしれない、という認識を持ちながら行動をすることが大事なのではないか」と述べられました。

 これには思わずなるほどと思いました。
 私が何か行動をすることで、どこかで誰かが不利益を被ることは避けられないでしょう。しかし、誰かが不利益を被るから行動を控える、ということでは、私は一切の行動を取ることができなくなってしまいます。
 そうではなく、例えどこかで誰かが不利益を被ることになったとしても、今の私が取るべきだと思った行動を取るべきだ、と思えました。

 そして、私が行動を行う上で大事なのは「どこかで誰かが不利益を被ること」に対して責任を取ることだと思いました。
 私が牛を救うためにとった行動で本来死ななくて良かった羊が代わりに死んでしまった。もしそうなったならば、私は羊を死なせてしまった責任を負うべきだと思いました。
 私の行動によって羊が死んでしまった事実を私が認識できるのかどうか、それは状況によるでしょうが、たとえ認識できなかったとしても「私の行動によって死んだ羊がいるかもしれない」と思い、その羊のことを知ったなら、その死に対する補償あるいは贖罪をする覚悟を持って行動するべきだと思いました。

 思うに私は不善を行わない全く無垢な存在でいたかったのでしょう。そのために完全な善を行いたかったのだと思います。完全な善とはつまり「羊を死なせず牛を救う」ことです。
 しかしそれは叶わない。ならば羊の死を覚悟して牛を救い、羊の死を認識できたなら、それを補うべく次の手を打つ、ということが大事だと思いました。もちろん、羊の死に報いる行動を取ることで、別の何かが死ぬかもしれません。そうしたら、その何かの死にも報いるべきでしょう。


 今回の授業で、私が「快・不快で判断することは良くないことだ」と短絡的に捉えていたことを相対化でき、かつ「快・不快の判断で行動することのデメリットを負いつつ行動すること」の大事さに思い至ることができました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!