見出し画像

創作物に自分の心を映すこと

 私は自分の思いや意見をnoteで言葉にしています。「私はこう考える、こう思う」というのを文章にして表現しています。
 私が自分の思いや意見を表現する手段がそれしかないのでそう行っているのですが、自分の心を表現する方法はそれ以外もあって、それ以外の表現の方が強度を持つこともあると感じます。

 そんなことを思ったのは、あるnoterさんの小説を読んだからでした。

 高山さんがスペースなどでお話されているのですが、高山さんがこの小説で描いている内容は、御自身の個人的な経験が関係されているそうです。意識してそう書いたわけではないのですが、書きたいように書いて、振り返ってみるとそうだった、ということだそうです。

 私はその話を伺って、創作物に対する見方が少し変わりました。
 自分の心を表すために、私のようにつらつらと文章で表現するより、物語として表現することでより切実に人に伝えられることもあるのではないか、と思ったのです。
 また、物語を書く側からしても、自分自身の心に与える影響はただ文章で言語化するのとは違うのではないかとも思いました。

 聞いた話ですが、過去に酷くネガティブな体験をした人が、その体験と同じような内容の物語を書くことで自らの心の傷を癒す、という過程があるそうです。例えば、子どもの頃に酷い虐待を受けた人が、酷い虐待を受ける子どもの物語を描く、などといったことです。
 私は物語を創作したわけではありませんので想像でしかないですが、物語のキャラクターを借りて自分のネガティブな体験を表現するのは、とても直接的に自分の心に触れ、それを表現することができるように思います。
 例えば私は、鬱になるほど苦しんだ時期がありました。その時のことをつらつらと文章で表現すると、同情を引こうとする気持ちも出てしまって、自分で読んでも気持ち悪い文章になりがちです。それに気を付けると逆に突き放した第三者から見た表現になってしまいます。
 しかし、仮にそれを物語として表現し、私とは別のキャラクターがその体験をしている、と表現するなら、私はもっと生々しく表現できるように思います。その時の苦しみ、周りの人々への恨み、自分がこのまま終わってしまうのではないかという絶望感、自分自身への嫌悪感、そうしたネガティブな感情もストレートに生々しく表現できるように思います。「私はこのときこう思った」だと、どうしてもエゴが混じって、ただ表現するのとは違う心の反応(同情を引きたいとか良く思われたいとか)が入ってきてしまいますが、自分とは違うキャラクターが体験しているという態にすれば、もっと直接的な表現ができるように思います。

 また、自分のネガティブな体験を創作で癒すのと同様に、自分のネガティブな体験と似た創作物を見たり読んだりすることで癒す、という過程もあるそうです。
 上記の例でいえば、子どもの頃虐待で苦しんでいた人が、虐待で苦しむ子どもの物語に触れることで自らの傷を癒す、という方法もあるそうです。
 自分の過去を文章にする自分語りよりも、物語として表現されたものの方が、読んだ人を癒す力についてもより強くあるように感じます。


 全ての創作物が自分の体験を基にしているわけではないと思いますが、人が創作する以上、その人の心のなにかしらを表現しているのは間違いないでしょう。
 そして、私は、自分の心を表現するのに自分語りの文章以外の形を使えるのはとても「美しい」と感じました。そういう表現方法に憧れはありますが、自分にその能力がないからこそ憧れるのかなとも思います。
 自分の心を物語の形で表現できる方々に畏敬の念を覚えます。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!