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原因があって結果がある、ということの意味

 以前の松葉舎の授業の時、塾生の方が「すごいスポーツ選手は股関節の使い方がすごい!だから股関節の使い方を良くしたらスポーツも上手くなる!」みたいな宣伝文句を聴くと、そんなわけないでしょ、と思うと言われていたのをふと思い出しました。そのすごいスポーツ選手は股関節だけでなく全身の体の使い方がすごいのであって、特に顕著にすごいと分かるのは股関節の動きかもしれないけど、全部が揃わないとそのスポーツ選手のような動きは出来ないでしょ、と言っているのを聞いて、なるほど確かに、と思いました。

 私たちは何か物事を観る時、ある結果が生じた原因を一つに求めてしまいがちです。あの人が人気なのは顔が良いからだ、とか自分の性格が暗いのは幼少期のトラウマのせいだ、とか。
 たしかにそれらは要因の一つかもしれませんが、上記のスポーツ選手の例と同じように、それだけが要因なのではなくて、さまざまな要因の影響である結果が生じている、というのがおそらく本当の姿なのだと思います。

 ある僧侶の方は世の中の本当の姿は「多因多果」だとおっしゃっていました。つまり、複数の原因によって複数の結果が生じる、という意味です。
 私たちは物事を単線的にとらえがちなので、一つの結果に対して一つの原因を見出してしまいがちです。しかし、一つの結果が生じるには一つの要因だけでは足りません。
 例えば、「花が咲く」という結果が生じるには、種という要因のほかに、種が植えられる土という要因と土の中の水分という要因と気温という要因と日の光という要因と……などなど、多数の要因が必要になります。どれか一つが欠けても「花が咲く」という結果は生じないので、「花が咲いたのは種が原因だ」とは言い難いのです。
 そして、土や気温や日の光などの要因によって「花が咲く」という以外にも虫が生まれる、別の植物が生えるといった別の結果も生じます。一つの要因が一つだけの結果を生むわけではなく、また、一つの結果も一つだけの要因によって生じるわけではないのです。

 

 そう考えると、何かの物事がうまく行くか行かないか、ということも一つの原因に求められるものでは無いと言うことになります。
 例えば、健康のために運動をしようと思って筋トレを始めたけど、三日坊主で終わってしまう人がいたとします。その人がもし「ああ、私はしようと決めたことも続けられない意志の弱い人間だ」と嘆いて自分を責めてしまったなら、それは的外れかもしれません。
 一つの結果に対して一つの要素だけが原因でないとは先ほど述べた通りなので、「筋トレを三日坊主で辞めてしまった」という結果は、「その人の意志の弱さ」だけが原因ではないでしょう。それももしかしたら原因の一つかもしれませんが、それ以外の要因が足りなかったことの方が問題かもしれません。
 それは例えば、筋トレのメニューが厳し過ぎたのかもしれないし、筋トレを続ける動機が弱かったのかもしれないし、もしかしたら部屋が掃除できていなかったことが筋トレ意欲を下げてしまった原因のかもしれません。
 そのために、筋トレのメニューを初心者向きのものを選ぶとか、筋トレをした日はXでポストしてシェアするとか、部屋の掃除をするなどの行いが筋トレを続けられる要素になるかもしれません。
 「筋トレを続ける」という結果を導くために「意志を強く持つ」以外の必要な条件を整えることの方が大事かもしれないのです。
 ぶっちゃけて言うと、「筋トレを続ける」ために「意志の強さ」は必要な要素として1%くらいしか重要度は無いかもしれません。その他の99%の方を無視して意志だけで何とかしようと思うのは、むしろ人の意志を重く見過ぎている傲慢さの表れともいえるかもしれません。

 実は似たようなことは仏教の瞑想実践でも言われていて、瞑想の実践が進むかどうかはそのための準備の方が大事だと言われるのです。
 ちゃんと戒を守って心を穏やかにしているか、心を騒がせるもの(娯楽や刺激的なSNSなど)から距離を取って心を落ち着かせているか、食べすぎや逆に空腹で心が散漫になっていないか、やるべきことを後回しにして心に引っかかりをつくっていないか、などなど、瞑想を始める前の条件を整えることがまず大事だと言われます。逆にこれらの条件が整っている状態で瞑想を始めれば、自然と実践は進んでいくとさえ言われます。この時も「瞑想をしよう」という意志は、必要な要素ではあっても全てではありません。その他にも整えるべき条件があるのです。


 こんなことをnoteにしてみたのは、最近ある人に「真剣に取り組めない自分がいる」と相談されたからです。その時も私は上記の説明のように、「やろう」という意志だけではできない、その他の条件を整えることに注力してみては、とアドバイスしました。その人が「やろうと思ってもやれない自分がいる」と自己否定気味な発言をしていたからです。「やろうと思ってもできない自分を責める」ことより、「やろうとしなくても自然とできるための条件を整えるにはどうしたら良いんだろう」ということに目を向ける方がその人が進むために良いと思ってアドバイスだったのですが、それが相手に届いたのかはよく分かりません。
 その人に偉そうにアドバイスしましたが、私もよく自分の意志を過大評価して、「できないのはやる気がないからだ」みたいな傲慢な考えをしてしまうので、人のことは言えないのですが。

 一つの結果に対して一つの原因を想定しがちなのは、おそらく人の自然な思考法なのだろうと、その人を見ても私の心を観ても思うところです。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!