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瞑想と言語化の私のとっての効果について

 私は自分自身を救うべく、「教祖 自分、信者 自分一人」のオリジナルの宗教or哲学orメソッドを作ろうとしています
 そのオリジナルのモノには「身体」「瞑想」「言語化」という3つの柱があるのですが、今回はこのうちの「瞑想」と「言語化」について、その効果を言語化してみます。

 「瞑想」も「言語化」も私の心に直接影響を与える方法です。
 「瞑想」は、私は上座部仏教を学んでいるので、そこで教えられている仏教の瞑想法です。以前紹介したことがありますが、私はチャルーンサティという瞑想法を修しています。

(プラユキ師によるチャルーンサティの指導動画)

 「言語化」については、私のnoteで書いている記事群がまさにそれです。私の中にある思考や感情を見つめて、言葉にする行為です。


 「瞑想」と「言語化」は共に私の心に直接向き合う手段なのですが、それぞれ行っていることは似ているようで違うな、という思いがありました。
 今回はその違いがある程度言語化できるようになったので、それを言語化してみます。


 まず「言語化」についてです。
 これは私のnoteの記事群が成果物なので、その内容はそれらを読んでいただくとして、行っていることは自分の思考や感情を見つめて言語化することです。
 今までも自分の心に思考や感情が浮かぶことはありましたが、noteを始めるまではそうした思考や感情は浮かんでも、特に文章に起こすなどはせず放っておいていました。
 しかし、noteで記事にするためにそれらを言語化しようとすると、その思考や感情をよりじっくり見つめる必要が出てきます。文章にしようとするためによくよくそれらを観察してみると、その思考や感情には文脈の飛躍や別々の事柄への思いが混ざっていることなどがあることが分かります。それらを丁寧に整理し、腑分けすることで、自分が何を考え、どう思っているのかをより正確に知ることができています。
 noteを書くまでは見過ごしていた思考や感情について、より詳細に把握できるようになりました。

 このように、言語化は自分の今生じている心を見つめ、その心の状態を明確に把握する効果があります。


 これに対して「瞑想」は、同じく自分の心に向き合う手段ですが、得られる効果は違います。
 私が実践しているチャルーンサティでは、手を一定のリズムで動かし、その手に常に気づくことが実践法となります。心でさまざまな思考や想念が浮かんでも、そちらに意識を向けずに手に注意を向けることを続けます。
 これは一見すると、言語化の時と真逆な態度に見えます。つまり、言語化の時は自分の思考や感情が浮かんで来たら、それらにしっかり目を向け、その内実を明確に把握するように努めます。
 しかし、瞑想ではそうした思考や想念が浮かんでもそれらを「しっかり見る」ということはせず、むしろ放っておいて手に注意を戻すことを繰り返すのです。一見すると、自分の思考や想念と言ったものを無視する、ないがしろにする行為に見えます。

 しかし、私が瞑想を行っている実感としては自分の心を無視する行為とは異なります。
 瞑想中、様々な思考などが浮かんできますが、そちらに気が付いたら「あ、こんな気持ちが浮かんできたぞ~なるほどね~」みたいに一旦軽く受け止めてから手に注意を戻します。手に注意を向けていてもついつい思考が浮かんできて意識がそっちに逸れることがありますが、逸れていることに気づいたら「あ~うんうん、そんな気持ちになるよね~」とまた軽く受け止めてから手に注意を向けることに戻ります。瞑想中はずっとそのように、思考に気を取られたら手に注意を戻す、ということを繰り返します。

 瞑想のときの思考や感情に向ける態度は、この「一旦軽く受け止める」というのが大事だと思っています。「思考が浮かんできて駄目だ!」と否定するのでもなく、「何も考えないようしよう」と抑圧するのでもなく、思考が浮かんで来たら浮かんでくるのに任せて「あ、こんなこと思ってるのね~」とその思考に気づき、受け止め、手に戻る、という軽やかな態度が大事です。
 「言語化」のときと違って浮かんだ思考を摑まえることをせず、一旦受け止めて手放す感じです。「手放す」より「そっとしておく」くらいが近いニュアンスかも知れません。一旦受け止めるので無視したり抑圧する態度とも異なります。

 するとどうなるか。私の感覚では、そっとしておかれた思考や想念は、その後、心の中で発酵が進み質的な転換が行われる気がします。「気がします」という曖昧な表現をしたのは、この質的な転換が無意識のうちに生じるため、転換が起きたという明確なタイミングが分からないからです。意識的にその思考を追っていないので「あ、こんな変化をしたぞ」とは気づかないで変わっていく感じです。
 質的な転換というのは、例えば「なんでいっつも失敗してしまうんだ……」という落ち込みの心に何度も気づくことで「私は失敗してしまうことを恐れる心があるな」とより深い原因に気づくような変化です。
 ネガティブな感情にしろポジティブな感情にしろ、その感情の更に奥にある感情の原因となる思いに目が向くような変化が生じるのです。

 まとめると瞑想は、心に生じる思考や想念を一旦受け止めてそっとしておくことで、その質を変化させる効果がある、ということになります(それ以外の効果もあるのですが、言語化との比較として今回はこの側面を強調します)。


 言語化が「今」の心の状態を明確に把握する手段であり、瞑想は今の心の状態はそっとしておくことで「先」に心の変化を促す手段です。
 イメージ的には餅つきの杵で叩く人と合いの手で餅を内に動かす人のそれぞれの役割が言語化と瞑想の役割の違いかな、と思います。どっちかだけだと美味しい餅が出来上がらない、みたいな。イメージですけど。

 事実、私は今まで何年も瞑想をしてきましたが、最近になってnoteをすることで瞑想がやりやすくなった実感があります。瞑想の効果がより分かるようになったという感じでしょうか。また、瞑想によって自分の心に気づく訓練をしていることがスムーズな言語化に役立っている気がします。
 私にとって言語化と瞑想は両輪のような関係です。


 さて、今回でひとまず言語化と瞑想の関係について整理することができました。私のオリジナルのモノにはこれに加えて「身体」という軸があるのですが、これについてはまだ私も突き詰めが甘いので今回は言語化を諦めます。


 本日は以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました!
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