鉄は熱いうちに打ってる
私はnoteに自分の思考や思いを言語化して文章として上げています。文章にするのは、なるべく思考や想念が頭に浮かんだその日中に行うようにしています。noteの記事にするほどの時間が取れない時は、せめてスマホのメモ帳に思考の要点を箇条書きで記しています。
私がそのようにしているのは、思考や思いを文章化するのには「旬」のようなものがあるように感じるからです。
私の実感として、私が自分の思考や思いを言語化する原動力は「煩悩」です。分かりにくいですね。もう少し一般的な言葉に言い換えると「感情を伴った衝動」ということになるでしょうか。やっぱり分かりにくいですね笑
まあとにかく、「感情」が言語化・文章化の時の大きな原動力になっている、ということです。
私が自分の思考を言語化しようとするときは、「これは何だろう」という興味や、「もっとこの気持ちの意味を知りたい」という探究心、「これ好きだなぁ」という好意の気持ち、「これ嫌だなぁ」という嫌悪の気持ちなどが湧いた時です。このうち嫌悪の気持ちについては、うっかり言語化すると人を傷つけてしまうことがあるので、noteにするかどうかは慎重に選んでいますが、とにかく、そうした感情が動く思考や想念を言語化をしています。
そして心は常に揺れ動くので、思考が浮かんだ時は強く感情が動かされても、時間が経つとその興奮は収まってきます。そして興奮が治まってしまうとそもそも言語化しようという意欲が失せてしまうので、文章に仕上げることが難しくなります。私はそのように時間をあけてしまったことで思考に対する熱量が冷めてしまい、記事に出来なかったものがいくつかあります。そうした経験から、記事は「書こう!」と思った時に書くようにしています。
また、記事は一度書いてしまえば無くならないというのも良いです。
言語化しようという熱量は時間と共に変化しますが、記事に上げたときはいわばその熱量が最も高い状態です。熱量が非常に高い状態の自分の心が文章という成果物で表されています。今の私はその記事に書かれたことへの熱量が冷めてしまっても、その記事を読むことで当時の熱量の高い私を追体験できます。これはなかなか面白い体験です。
この効果に気づいたのは、過去何年にもわたって書いていた日記を読み返した時です。
当時の日記は苦しい、辛いという内容が多かったですが、その苦しさを切実に文章にしていました。今の私は当時の苦しみを感じていませんが、読み返すと「ああ、この時は本当に辛かったんだなぁ」とその当時の苦しみが伝わってきます。
ネガティブな感情は思い出しても益はあまり無いですが、noteの記事は当時の日記よりはポジティブな内容あるいは気づきについての内容が多いので、読み返しても楽しめます。気づきを得た喜びや興奮をnoteを読むことで追体験できます。
特に、自分が「これ好き!」と思ったことを記事にした内容は我ながらとても良いなと思っています。最近書いた記事で言えばボカロ曲の「アルティメットセンパイ」について書いた記事は我ながら良く書けた記事だと思います。
「良く書けた」というのは記事の出来の善し悪しではなく、記事に「この曲好き!」という熱量を上手く込められたな、という思いです。
私は熱しやすく冷めやすいところがあり、「これ好き!」と一気に好きになったと思いきや、ある日突然興味が無くなる、ということがあります。しかし「これ好き!」の時にその気持ちをちゃんと言語化できていたら、その思いが冷めた後も「これ好き!」の時の気持ちが形として残るのが良いなと思います。
私は自分自身が「これ好き!」と思った自分の心を忘れてしまうのが勿体ないなと思っているので、noteにすることで「これ好き!」の心を形として残せるのはとても嬉しいです。
そういう意味でも、私は自分の「これ好き!」をなるべく熱量があるうちに文章にしたいな、と思っています。その後冷めてしまったとしても、その時は確かに自分が好きだという熱量を持っていたものについて、その熱量ごと残したいのです。
私は自分以外の人の記事を読むときもその人の「これ好き!」の記事を読むのは好きです。それはその記事から伝わってくる記事を書いた人の「好き!」という熱量を感じるのが好きだからです。やはり熱量が高い記事は読んでいて楽しいです。
なんだか、以前書いた記事と真逆のことを書いていますね笑
まあそれもそれで良いかなと思います。「これ好き!」の熱量が冷めてしまうのと同じように、暗い文章が好きな時もあれば、明るい文章が好きな時もあります。その時の気分によって好む文章は変わります。
そして言語化は、その時の気分も文章として形に表されるので、それも面白いところだと思います。
私が言語化した文章は、あくまでその時の私の思考や感情や気分なので、後になって正反対の意見になることもありますが、それもそれでその時の意見、気分を形として残せているので良いと思っています。
他の人はどうか分かりませんが、私は自分が書いた記事は、書き上げた瞬間からどこか他人の物のように感じる傾向があります。記事の内容は確かに自分が書いたのだけど、どこか自分でないもの、という感覚があります。
これも以前書いた記事と真逆のことを言っていますね笑 どっちやねん笑
いやまあ、どっちも確かにそうなんですけどね。「自分のものだ!私のアイデンティティだ!」と強く固執する心もあれば、「言語化が終わったら興味が無くなる。他人事のように思われる」という心もあります。我ながら矛盾した心だと思います。
さて、良い感じで支離滅裂になってきたので、今日はここいらで終わります。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!