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親ガチャという思想と偶然性に開かれた人生と

 先日の松葉舎の授業では、人生における偶然性にどう向き合うか、というテーマの授業がありました。


 まず、塾長の江本さんから「親ガチャ」という考え方についての解説がありました。
 親ガチャは2021年の新語・流行語大賞のトップ10に選ばれた言葉で以下のような意味として使われています。

親ガチャ(おやガチャ)は、生まれもった容姿や能力、家庭環境によって人生が大きく左右されるという認識に立ち、「生まれてくる子供は親を選べない」ことを、スマホゲームの「ガチャ」 に例えた日本のインターネットスラング

Wikipedia「親ガチャ」

 自分の両親は自分で決めることができないにもかかわらず、自分の人生に大きな影響を与えます。例えば、ある研究では、中学生において、家庭の裕福度を4段階に分けた際、最も貧しい家庭で毎日3時間勉強している子どもよりも最も裕福な家庭で全く勉強していない子どもの方が成績が良いという結果もあります。
 自分の人生に親が与える影響に注目した考え方が「親ガチャ」であると言えます。

 この「親ガチャ」の思想には二つの前提となる姿勢があります。
 一つは、ある種の運命論、決定論的姿勢です。
 「親ガチャ」という言葉は多くの場合、「はずれ」を引いた側が使う言葉です。親の影響で自分の人生が「はずれ」をひかされた、と言うニュアンスが「親ガチャ」にはあります。
 しかし、自分の人生に影響を与える存在は親だけではありません。友人、先生、仕事仲間など、多くの出会いによって影響を受けています。また、それ以外にも多くの偶然性によって人生は変わり得ます。そして、親以外の要因によって自分の人生が変わっていった実感があるなら、言い換えれば「親ガチャ」ではずれを引いたとしても、その後の人生の歩み方で「はずれ」の人生が「当たり」に変わり得る、と思っているなら、あえて親の影響を大きく捉える「親ガチャ」という思想を取ることは無くなります。
 つまり、「親ガチャ」という考え方には、人生の幸不幸が親という要素によって決定されており、それを覆すことは出来ない、という前提があります。

 もう一つ「親ガチャ」の前提となるのは、自分の人生を自らの意志によって変えることができない、という考え方です。
 もし、どんな親から生まれたとしても、自分の人生を自分の努力や意志によって変えることができている、という実感があるなら、親という要因のみの影響を大きく捉える「親ガチャ」という考え方を採用しないでしょう。
 おそらく「親ガチャ」という考え方にリアリティを感じる方々は、自分が生まれてからの人生の中で変わっていけた、自分でアイデンティティを培っていけたという実感がないため、初期設定(親)が自分の人生を決めてしまっている、と感じられるのではないでしょうか。
 あるいは、親がいわゆる「毒親」で、子どもの頃から自由に生きることができず、絶えず制限を加えられてきたのかもしれません。

 ところで、「自分の人生は自分の意志によって切り開かれるのだ」という考え方もあります。努力や自由意志を重んじる考え方ですね。
 「親ガチャ」に絡めていうと、自分の人生は自分の努力や意志によって切り開かれる、と実感できる人は、親ガチャに成功した人が多いでしょう。つまり、恵まれた家庭の人です。
 恵まれた家庭の人は、努力しようと思えばそれに適う環境が与えられます。勉強をしたければ塾に行ったり大学に行け、スポーツをしたければそういう部活やスポーツクラブに入れます。
 努力しようと思えば、それに適う方法がとれ、そして成果も出るのであれば、「自分の人生は自分の努力で切り開いた」という実感は得やすいでしょう。
 しかし、先にも例として挙げたような「毒親」に育てられた人たちはそうした実感を得るのは難しいでしょう。常に自分を否定するような言葉を投げかけられ続けたり、自分のしたいと思うことを妨げられ続けたりした人は、そもそも「これをやりたい」とか努力しようという気持ち自体を育めないかもしれません。そうした人たちにとっては、「自分の人生は自分の意志によって切り開かれるのだ」という言葉は非常に薄っぺらく、リアリティの無いものとして受け止められるでしょう。
 
 ところが、一見親ガチャと正反対と思えるこの考え方も、もし人生は自分の努力や意志によって「のみ」切り開かれるんだ、と考えるなら、それは「親ガチャ」と同じ思想と言えます。というのも、「人生と言う複雑な事象を単一の原因(親または自由意志)に求める」という点において同根だからです。
 人生においてはどうやっても変えられない部分もあり(親、自分の肉体的特徴、出身国など)、変えられる部分もある(どういう人たちと関わるか、どういう場に自分を投げ出すかなど)というのが実際に近いので、人の自由意志にしろ、親にしろ、何か単一の要素に自分の人生の結果の原因の全てを求めるのは極端な考え方と言えます。

 

 授業でこの親ガチャの解説を聞いた時、私はあるお坊さんから聞いた「多因多果」の話を思い出しました。
 仏教においては、単一の原因から単一の結果が生まれるという考え方(一因一果)、もしくは単一の原因から多様な結果が生まれるという考え方(一因多果)は間違っているとされます。そうではなく、多様な要因から多様な結果が生まれる(多因多果)と言われます。
 「親ガチャ」にしろ、「自分の努力、自由意志によって人生は変わる」という考え方にしろ、どちらも単一の要因(親、自由意志)によって人生と言う多様な事象の集合の結果(多果)が決められている、とする点が仏教において否定されている考え方だな、と思いました。つまり、「親ガチャ」にしろ「人生は自分の努力によって切り開く」という考え方にしろ、単一の要素に原因を求めるという意味においては極端な考え方なのです。
 仏教の「多因多果」という考え方を採用するなら、親という要素も自由意志という要素も人生に影響する要因の一つではありますが、それが全てではありません。自分の意志や親だけでなく、多くの人たちとの出会いや交わり、そしてたくさんの出来事が人生に影響を与えるでしょう。

 
 親は子どもの自由で選べません。そういう意味で、子どもにとって親は「偶然性」に満ちた要素であると言えます。偶然性に満ちた要素である親の影響を重視したものが「親ガチャ」という考え方と言えますが、人生にはもっと様々な「偶然性」に溢れています。江本さんは授業で「究極の偶然性は出会い」とおっしゃいました。私はそれに非常に納得しました。

 甲野善紀先生高森草庵のシスターとの出会いは、確かに私の人生に大きな影響を与えました。甲野先生に会うことで私は自分の人生を通じて探求すべき命題を持つ大事さを学び、シスターと会うことで無私の心の美しさを学びました。そして、学ぶだけでなく、少しでもお二方に近づけるように生きようと、自分を変えてきました。私は確かに、あのお二方に出会うことで人生が変わったという実感があります。
 そういう実感があるため、江本さんの「究極の偶然性は出会い=出会いによって人生は大きく変わり得る」という言葉に非常に納得したのでした。

 「偶然性」とは何かということを簡単に言うと、「どうなるか分からないこと」と言えると思います。それをやってみたら、その人と会ってみたら、何か変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。変わるとしても良い方向に変わるか、悪い方向に変わるか分からない。
 「どうなるか分からない」という状況は正直怖いですし、腰が引けることもあります。ただ、「どうなるか分からない」を一切排除し、そうしたものを避けていくなら「どうなるか分かる」未来しかありません。それは現状の延長でしょうし、その現状が不幸であるなら(「はずれ」であるなら)、その先もずっと不幸のままである可能性は高いでしょう。
 「親ガチャ」の思想とは、自分を偶然性から閉ざしてしまい、見えている世界だけ(「はずれ」をひかされたという実感)で生きている、とも言えるかもしれません。

 私は自分の人生をよりよく変えていきたいと思うので、もっと「どうなるか分からない」に身を投じていきたいと思います。
 思えば、松葉舎に入塾することも「どうなるか分からない」に身を投じる行為だったと言えます。その結果、今の私は非常に良い影響を受けていますが、入る前から良い影響を受けられると分かっていたわけではなかったです。入ったところで何も得るものはなかった可能性もありました。実際、松葉舎以外で「行っても意味がなかったな」と思える集いもたくさんありました。
 しかし、そうした集いにも自分を投げ出していたから、松葉舎という集いに出会えたとも言えます。いつも「良い結果が得られる」という予測が立つ場にしか赴かないなら、私は松葉舎という場に出会うことは無かったでしょう。


 私にとっては、親ガチャという思想よりも、多くの偶然性によって私の人生が変わってきたし、これからも変わり得る、という考え方の方が生きやすし、生きていて楽しいので、これからも多くの偶然性に自分をなげうって行きたいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!