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「学ぶ者」と「教わる者」

 最近よく無銘さんとスペースでおしゃべりしています。

 今回のスペースでも話題があっちゃこっちゃに飛びながら2時間以上話してしまいました。その中で特に印象に残った話題について書いてみます。


 仏道修行に進んだ動機が無銘さんと私とでは種類が違うことが話題に上がりました。
 無銘さんは御自身の中で強烈な苦しみがあり、それを解消するために仏教の瞑想実践に取り組まれました。それは自分の内側から生じた内発的な動機です。
 対して私は、無銘さんのように苦しみを解消したいという動機もありつつ、よくよく自分を観察して見えてきた一番の動因は人からの影響でした。具体的には甲野善紀先生の影響です。

 甲野善紀先生は自分の内にある命題を探究するため、おおよそ普通の人が選ばないであろう武術の道に進まれました。そして何十年もその道で精進を続け、今なお歩みを止めていません。
 私が大学四年生の時に甲野先生に出会い、人生の本質的な問いを探究する姿を学びました。そして甲野先生の姿に触発されて「私も人生の本質的な問いを探究したい」という心が芽生えました。
 私が仕事を辞めてタイへ出家しようとしたことの主因は苦しみからの逃避ですが、出家というかなり大胆な行動をとったことは甲野先生との出会いが確実に影響しています。そして出家未遂から帰国したのち、高森草庵に滞在してから林業に進んだのも、「自分の人生にとって本質的なものと向き合いたい」という甲野先生の姿から触発されて抱いた思いが影響していました。

 つまり、無銘さんや甲野先生とは異なり、私が仏道修行や林業などの道に進んだのは、自分の内からの内発的な動機だけが原因ではなく、外からの影響も大きな原因だったのでした。

 なお、本記事においては、無銘さんや甲野先生のように内発的な動機において実践を進める人を「学ぶ者」、私のように人からの影響がより強い動因である人を「教わる者」と仮に呼称します。


 さて、では「学ぶ者」と「教わる者」の動因の違いがどういう結果をもたらすのでしょうか。

 まず、実践者という側面で言えば、「学ぶ者」の方がより積極的に実践に臨むでしょう。
 無銘さんは瞑想実践に集中して取り組み、一定の境地に至るまで突き詰めました。甲野先生も21歳から武術の道に入り、今年で74歳になられますが今なお稽古を続け、武術の技は常に進歩しています。
 対して私は、スカトー寺で集中的に修行する期間はありましたが、ある程度のところで満足して、それ以上進もうという気概に薄いところがあります。自分の内から湧き続ける動機が無いため、ある程度の段階で満足してしまいやすいのかもしれません。
 ただ、最近は無銘さんを始め、上座部仏教の実践を深く行っている方と出会うことができたので、以前より修行にモチベーションを持てるようになりました。この「人に出会うことでモチベーションを上げることができる」というのは「教わる者」の特長かもしれません。

 さて他方で、人に対して教えるという立場ではどうでしょう。
 無銘さんが瞑想実践で一定の境地に至ったのち、積極的に人に教える行動に出なかったことにも表れている通り、自分の経験から得たものを人に伝えたいというモチベーションは「学ぶ者」より、「教わる者」の方が大きいと思われます。
 それは、「学ぶ者」が道に進もうとした動機は人から与えられたものではないため、当人が自ら道に進もうとしないと結局は道を歩み続けることはできないので、人が人に与える影響は本質的ではないと思っているからかもしれません。本人の経験においてはそれは確かに真実なので、人に与えられる影響について小さく評価するのも理解できます。
 それに対して「教わる者」は自分自身が道を歩む動機が人から与えられた影響が大きいので、他の人も人から与えられる影響で歩みを進めることができるという実感があるでしょう。そのため、他の人に道を歩んで欲しいと思う時、積極的に人に働きかけることになると思います。

 また、実際に人に伝えるために語る時、「教わる者」は自分が教えを受けた経験から人に語ることができます。教えを受けたとき、多くの人から教わった者は、どの伝え方がより伝わるかという引き出しも多いことでしょう。
 私もさまざまな分野の人から教えを受けたので、良く伝わる語り口と伝わりにくい語り口のどちらも経験しました。そのため、自分が人に語る時、相手に合わせて語り方を変えることは、「教わる者」の方が一日の長があると言えるでしょう。

 
 私は甲野先生に憧れるところが強かったため、「学ぶ者」に憧れていたところがあったのですが、人に教え伝える、という点においては外からの影響が強い人の方にも利点がある、ということが分かったのが興味深かったです。
 人のどのような特徴も一長一短あり、その長所と短所はコインの表裏のように一体なのだと改めて思いました。


 「教わる者」である私としては、無銘さんのように「学ぶ者」には自分の確信に基づいて、自分が本物だと感じる道を説いて欲しいと思います。
 無銘さんはその説き方がより伝わるためにどう工夫するか、というところが課題であると感じられているようですが、私からしたら難しいところを考えずに説けばいいと思っています。
 甲野先生も正直、人に教え伝えるというところでは上手とは言えませんが、それでも甲野先生の姿を見ることで私を始め多くの人が自分の人生をより深く探求しようと思ったのです。
 それは、甲野先生の伝え方の巧拙が問題になったのではなく、甲野先生自身が常に御自分の命題に真摯に向かい合っている姿自体が、甲野先生に出会う人々の目を開かせたのだと思います。
 そのため、無銘さんも自分の確信している道を堂々と説けば、その説いている内容ではなく、説いている姿に影響を受けて生き方を変える人も生まれると思います。その結果、仏道修行とは別の方向に進む人も生まれるかもしれませんが、私はそれでも別に構わないと思います。
 その人の人生において何が一番大事なのかは他人には分からない以上、仏教とは別の道に歩まれたと言うことは、その人の人生において仏教ではない別の何かがより大事だったと言うことでしょう。それでも、1人でも多くの人が自分の人生を本質的な問いの探求のために生き直すことができる方がより大事なことだと私は考えます。

 
 
 後半は記事と言うより無銘さんへのメッセージみたいになりましたが、今回のスペースも私の中で気づきの多いものになりました。
 無銘さんとは関心を持っている分野で重なっているところが多いので、お話をすると気づきも多いです。これからも無銘さんとのスペースは続けていきたいですし、そこで得た気づきもnoteで言語化し、還元したいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!