ヘアトニック

   ヘアトニック
鳴沢 湧 

 30分ほど早く目が覚めて髭を剃ってから整髪しようとヘアトニックの瓶を手に取ったら底に3センチくらいになっていた。
買っておかなければ、と思ったのだが、これだけあれば10日や15日は使えるだろうと思い直した。
 ふっと思い出したことがる。会社勤めを11年ばかりで辞めて、脱サラしたばかりのことだった。
仕事で出かけたついでに薬局に立ち寄り
「ヘアトニックありますか」
と聞くと店主の奥さんらしい人が、
「香料の入った上等な物ではないのですが」と瓶を出して出して見せてくれた。
「髪に付けるのではないから却っていいです」と言うとあまりに不審そうな顔をするので、看板屋をしていた私は、
「使った筆を洗ってこれで湿しておくと、後で使い易いのです。書道と違って墨だけではなく、油性のペンキや、顔料入りの水性ペンキを使いますので筆が痛みやすいのです」
と説明すると驚いて、
「私の書道の古い筆もそうしようかしら」
と言っていた。
 専門の筆屋が年に一度くらい回ってきた。
間に合わせに文房具屋で買った筆と筆屋が持ってくるものとは、試してみると明らかに使い勝手が違うのだった。
 中国から仕入れた鼬の毛で作られたという筆は高価だったが使い易く長持ちした。痛んでも筆屋が来た時に筆の穂をほぐして作り直してくれるので、捨てられなかった。
 手元の筆立に細めのゴシック筆が二本ある。パソコンのキーボードの掃除に使っているものである。
 長い事手入れをしなかった。思いついて残り少ないヘアトニックの瓶を傾けて筆の穂に付けた。滴りそうになった滴を指にとって髪に擦り付けた。
 ペンキも墨も使わなくなったが、大切な筆だから。
                          2021年5月26日

この記事を掲載したのは去年の5月26日でした。間もなく10カ月になります。
昨日去年使い始めたヘアトニックが終わり、新しいビンを封切しました。
心なし香りが強いようです。
キーボードのキイの間の埃を掃き出すのに使っている細いゴチック筆にもヘアトニックを湿してやりましょう。
                        2022年3月5日、
(今日は宇都宮へ『狂言』をみにゆきます)

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