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『怪物』:被害者と加害者の視認性

性的マイノリティ当事者らの一部から大バッシングを受けている『怪物』。
本文を書く前に、日本で上映するにあたり、どこが初期広報業務でまずかったのか私的に検証したい。

1000文字以降あたりから本作のネタバレをします。あしからず。

まず、カンヌ映画祭での上映直後の記者会見が非常にまずかった。

特に、“英国メディアの「日本ではLGBTQ(など性的少数者)を扱った映画は少ないのでは」との質問に、是枝監督は「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか」と応じた”部分。(この後キャストの黒川想矢さんがナイスな発言で是枝監督の発言をフォローした。希望。)

これは不適切な発言だった。
なぜなら、この発言によって、実在するマイノリティ当事者について「作品に必要な要素として、消費目的でキャラクター造形をした」とも捉えかねない発言なので。
おそらく、是枝監督は、”貧困”や”断絶”については、とても深い理解をしているが、”差別”については男性として性的にマジョリティ側に所属しているので、やや無自覚な部分がある。
きちんと、マイノリティの人たちに寄り添いたいという意図があったこと、一部の男性たちが作ってきた社会デザインを疑い、マイノリティとレッテルを貼られてきた人たちを同じ仲間として共存していくことが必要で差別すべきでない、と示したかった、と発言すべきだった。この程度はネタバレにはならないし。

ともあれ、『怪物』はめでたくLGBTQを扱った映画に与えられる「クィア・パルム賞」を、審査員のマイノリティ当事者のジョン・キャメロン・ミッチェル監督を筆頭に満場一致で授与され、「脚本賞」をも受賞したのだ。

是枝監督の不適切な記者会見で、本作『怪物』を”見るべきでない作品”というレッテルを貼る事は、ますますもってもったいない。
是枝監督のカンヌでの上映直後の発言と、坂元裕二の脚本の持つメッセージには、大きな乖離があるからだ。

また、後の記者会見で、本作では是枝監督らはLGBTQの子どもたちを支援している団体にも取材をしていると発言している。

さらに、是枝監督は映画の構成上ネタバレを防ぎたいという気持ちがあったが、これはマイノリティ当事者をネタとして消費する意図はない、と明言もしている。
ネタバレ禁止について、私自身思う所が沢山ある。
まず、ネタバレ禁止を謳うことはとても密室的で男性社会的、貴族社会的な封建制をもった時代遅れなイメージがある。
なぜなら、映画は絵画ではなく、言葉を扱うものである以上、言葉を介して議論が発生することを祝福しなければいけないからだ。
結論を隠して議論が進むことはない。
映画は監督だけのものではなく、監督とスタッフ、そして見た人のものだ(逆に言えば、自身の予想を元に見ていない人は議論に加わることは難しいはず)。
また、作品に強さがあれば、一度見てストーリーを理解したところで、魅力が消えることはない。

宣伝活動のやり方を本作は大きく間違えた。
が、作品として強烈な魅力があり、実際に遭った事件のコピペではなくオリジナル作品としてよく脚本は練られているし、見る価値は十分にある。
と、いうのも日本の悪腫をこれでもか、と散りばめており、あらゆる日本人がグサグサと心をえぐられる作品だからだ。

教職関係者は絶対に見るべきだし(小学校のシステムもよく取材している)、映画ファンのみならず、今の日本の問題点に少しでも関心がある人は見た方がいい。

そんなわけで、私の感想はかなり肯定的だ。
以下、ネタバレを含めて書く。
というか、そもそも「クィア・パルム賞」を受賞し、これを宣伝活動に使っている時点で、ネタバレも何もないじゃんか。
廃れろ、ボーイズクラブの風潮!
私は自分だけが”知っている風”な顔をして(一般社会人より時間があるから表面的な知識をテキストとして保有できるだけで、社会や人間性の部分を深く”知っているか”は別問題なのに)、知らざる他者にホモソしぐさでマウントを取り、企業で働きながら作品にあたる一般庶民の柔らかな感性を傷つけるクソ批評家が大っ嫌いなんだよ!
(とはいえ、全てをネタバレするわけではない。見てないのに理解した風になるネタバレ記事も品が無いだろう。)




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この作品は、『ゲーム・オブ・スローンズ』を筆頭とした海外ドラマのように、同じ世界の語り手として登場人物らの視点を物語を語らせた、三部構成になっている。
なので、同じ出来事を、違う立場の人間が語ってゆく。
いわゆる”羅生門形式”だ。

まず、安藤サクラ演じる早織という母親の目線で物語はスタートする。一見、何気ないありふれた母と息子の日常であるが、その日常が悪意に散らばされたものであることに、私はすぐに気が付いた。
(というのも、「クィア・パルム賞」を受賞した、という前情報を知っていたからなのだけど。)
まず、テレビで流れる「どんだけ~」的なおちゃらかし場面。(作中では「ぷりぷり~」だったはず?)
あははは、と母親は笑う。
その様子が、息子の湊を傷つける。
これ、わからなかった人、いますか? 
女子トイレにトランスジェンダー入って来るなと声高に叫ぶ人たちは、テレビに出演している派手な女装した男性をモデルにして、トランスジェンダー=太っていてメイクが派手で楽しいけど突飛で辛辣な発言をし、奇怪で隣人としては付き合いたくない人々、だと思いがち。
でも、実際は全然違う。
もちろん体格差はある。人間の個体として、セクシャリティに関係なく、誰にもあるように。
でも、テレビタレントとして目立つ存在であることを外見として使い、かつそれをアイデンティティとする、要は芸能人としてデザインされた人々と、男性の体で生まれてきたけれど、女性として生きる選択をした人は全く違うのだ。
実は、女装をしたトランスジェンダー自認の薄いゲイの人々を、トランスジェンダーとレッテルを貼って楽しむことは、トランスジェンダー当事者を傷つけている場合がある。
トランス女性は、もっと普通に外見も中身も女性だ。有害でなければ、天使のような優しさで接することもない、でもたまに親切だったりもする、よくありふれた女性そのもの。
もう少し言うのであれば、例えばドラァグクイーンの人にも、見た目こそ目立つが、知的で親切で素晴らしい人格を持った人は実際にいるのだが、そうしたマイノリティの”ありふれた善意”について、マスコミは決して取り上げようとはしない。
マスメディアが流すのは、”セクシャリティの奇怪な要素を誇張した演出を受け入れる”人々であり、視聴者は彼らを”面白い怪物”として消費する。シスジェンダーの疲労した毎日を、うすら寒く回復させるための生贄のように。
母と息子の日常は、母親の心からの慈しみにあふれたものでありながら、加害の仮面を無自覚に被ることで成立しているのだ。

さらに、母親は息子に自分の夢を託す。これは後々早織の人生を湊が語る場面があるのだが、母親も人生を偽っている部分がある。その偽りを修正するかのように、シスでヘテロで早織の理想とする幸せな人生を歩んでくれることを期待している旨を、湊に直接伝えるのだ。

これは、セクシャルマイノリティの人からすると、結構地獄だと思う。
なぜなら、自分のアイデンティティが違う方向かもしれない事を、考える隙を与えられないから。
もしかしたら、湊はシス男性かもしれないし、ゲイかもしれないし、MtFを希望しているかもしれないし、バイセクシャルかもしれない。
湊はどこに所属したらいいのか、まだわからない。
それを、自分でわかる隙を与えられないのだ。
息苦しい日常である。

では、母親の早織が”毒親”と言われる子どもにとって有害な人物であるか、と言えばそれは全く違う。
早織は心から息子を大切に思っており、いじめの”疑惑”を受け取ると、教職員とも果敢に戦う。
が、早織は家族を営むために生活費や食費を稼がなくてはならないわけで、息子湊の学校での様子を観察する時間はない。
教職員側も、湊以外の生徒とのバランスも考えなきゃいけないわけで、早織の言い分を一方的に聞くことは出来ない。
早織の戦っている様子は、教職員からすると、息子の様子を知らないで無茶を言う、モンスターペアレントそのもの。
しかし、自分以上に湊を大切に思っている早織にとって、奥歯に物が挟まったような説明で無理やり説得を試みる教職員たちの姿は、疑わしい姿としてしか映らず、怒りを増幅させていく。
お互いのすれ違いが、大きな争いへと燃え広がっていくのだ。

パンフレットを読むと、本作品はマーティン・マクドナー監督の『スリー・ビルボード』の感想を話すところから企画が始まったそうだが、早織のキャラクターは、『スリー・ビルボード』のミルドレットに似ている。
ただ、ミルドレットと違うのは、ミルドレットほど早織は狂気に駆られてはいない。
早織は教職員や学校を燃やしたり、ビルボードを使って失態を明るみに出そうとはしない。
なぜなら、ビルボード、看板に傷つけられているのは、実は早織本人だから。
本作に、”母親の愛情により良い子が育つ(うろ覚え…だれか正しいテキスト教えてください)”的な看板が川べりに立っているシーンが登場する。
早織を取り巻く社会は、醜悪にデザインされている。
シングルマザーとして、父親のいない家庭で息子を守る家長として、早織の背負う封建的な価値観の、なんと残酷で重いことか!

早織は息子を愛しているのに、本来の姿が見えにくくなっているのだ。
それは、早織が社会によって、「良いとされる家族像」を無理やり演じることを強要されているから。
早織の愛は本物で、深く息子を理解しようとしているのに、彼女は息子の気持ちの揺らぎを視認することはできない。彼女の視界を、日本の家父長制が「常識」という看板を着たフィルターとなって阻むのだ。

二部では、永山瑛太演じる教師、保利の視点で進む。
保利は、生徒の成長を温かく見守る、よくいるタイプの小学校の教員だ。
夜は異性の恋人とデートをするために、待ち合わせる。
そこで、待ち合わせている間に、火災に遭遇し、それを見に来た生徒を「夜遅いから早く帰りなさい」と、大人として真っ当な言動で促すわけであるが、怒られた生徒や生徒の家庭は保利の言動を面白く思わないわけで、なぜか”火災のあったビルの中のガールズバーにいた寂しい(下品な)保利先生”として、町中に虚構の情報を広められてしまう。
人々は自分の善を正しいと何度も承認したいがために、善との差を生む悪を無理やりつくって、薄暗く楽しむのである。

保利は、組体操で男子生徒らを励ます。
「もうちょっと我慢しろ、男の子だろ」的な言動で。
保利は気が付かないのだ。
男の子らしい男の子でいることを正しいこととして認識させることが、男子生徒らを圧迫していることに。
なぜなら、保利は教師として職をもち、かわいい彼女もいる”成功した男性”であるから。
自分の領域以外の生徒が求める優しさの提供の仕方を、知らない。
もう少し自分以外の全く育ちが異なる人物がいることに対する気付きと親を中心とした家族によってそういった個別の事案が隠されて見えなくなっていること、そして彼、彼女らに必要とするケアについての学びについて、保利の理解があれば…!

ある時、保利は星川依里が何か問題を抱えているような印象を受ける。
そして、星川に声をかけ、家庭訪問までし、星川の父親の暴力に気が付いてしまう。
帰り道、保利は星川の置かれた境遇に思いを寄せるが、教職員という立場での限界を感じ、悔しさをにじませるのだ。

それでも、保利もこの時点ではまだ気が付かない。
星川のセクシャリティが、マイノリティの所属する可能性があることを。
シス男性である保利にとって、男の体を持つならば、男性としての自我により健康で安全な人生を歩めるという偏見があるからだ。
保利は、いじわるな教師ではない。生徒思いの優秀な教師だ。
しかし、その保利の無為の善意を、日本が作り上げてきた男性社会の価値観が阻み、星川と湊の繊細な感情を救うために使わせない。
またもや、日本社会のデザインが、叫び声をあげる者たちを視認させないのだ。

さて、ラストの第三部である。
が、ここは大幅に省くとする。
なぜなら、これは見て感じるものであるから。
一つ言わせてもらうと、星川と湊があるゲームをするのだが、うまい仕組みだと思った。
あのゲームにより、視認性の残酷さ、がよく強調されている。
カメラの撮り方もあるが、ゲームをしているのは、子どもたちか、それを見ている私たちか?
「一部と二部の答え合わせが三部だった」という感想をちょっと見たが、私としてはそこは否定したい。(特に製作サイドがネタバレ禁止を提示したが故にこういった感想が出てきてしまったことを、スタッフ全員で反省した方がいい。ミステリー映画じゃないんだから。)
三部では、当事者の心象が描かれるわけだけど、ここでやっと是枝作品らしさが垣間見える感じがした。

あのラストに不満を持っている人が多い。
私も、一つ余計に言えば、早織と保利が最後出会う所では、一言二言、もう少し会話がなされた方が良かったと思う。本作は映画なので、映画としてはもう一歩踏み込んだ言葉があった方が、観客の理解を得られたような気がしなくもない。

是枝監督は『誰も知らない』『万引き家族』を筆頭に、資本主義の価値観を受け入れられなくなった結果、社会から見捨てられ、視えなくなった人々を題材に選ぶことが多い。
なので、今回もこれらに続く流れだし、社会の中に確かに存在するが、視えないために起こる悲劇、をよく拾っている。
しかし、今回新しいと思ったのは、早織という存在を、見えなくなった弱者として描かないことだ。
早織は、性的マイノリティに対する知識はないし、学校ではモンスターペアレントとしてレッテルを貼られた人物だ。
早織はシングルマザーとして社会的に弱い立場を与えられやすい、という認識はあるものの、その状況に甘えることなく、受け入れた上で、犯罪行為に加担することなく、毅然として立ち向かう。
早織は、けして有害な人ではなく、私たちの社会を構成する人物であり、私やあなたも、観客の誰もが感情を寄せることができ、まっとうな職業を持つ社会人として社会の中で正しく”機能”しているのである。
『誰も知らない』のけい子は子どもを見棄てる完全な毒親、『万引き家族』の信代は優しい母親という側面を持つ犯罪者、であるが、早織のキャラクターデザインは、全く違う。
彼女は、社会の中で、善なる母として、マジョリティに与する人物なのだ。
「今までの是枝作品は好きだったけど本作は好きではない」という人は、これが受け入れられがたい部分なのかもしれない。
本作では、弱者ではないごく一般的な母親が、加害に所属してしまう可能性をリアルに描く。
そして、是枝作品の強みは、元ドキュメンタリー作家でもあった監督の素質もあり、あまりにリアリスティックなので、痛みを感じやすいところだ。
センシティブな内容が、そのまま観客の心に響いてしまうため、その状況に耐えきれなくなる人もいるだろう。
とはいえ、是枝作品が海外で評価されるポイントはまさにこういったことなので、これを受け入れられない、としてしまえば、仕方ないよね…としか言いようがない。
リアルに痛みを感じさせること、は言葉を介する芸術が担う宿命であり、呪いであり、祈りであるからだ。

私は是枝監督は本作で新しい一歩を踏み出したと思う。
今までの作品以上に、キャラクターたちをとりまく社会全体を描けていると思うからだ。
どちらかというと、今までの是枝作品は弱者を弱いものとして徹底的に描き、寄り添うばかりだった。
今回は、弱者としての存在を拒み抗う人々と、彼らを包み込む社会との闘いを初めてえがいたと思う。
感情的な激しい怒りを呼び起こしたり、弱者への深い共感を誘うのではなく、もっと見ている側こそが加害にあたっている可能性があるのでは? という問いを強く投げつけた。
客に投げつける問いは、とても暴力的だ。
しかし、その暴力は、見た人が考える燃料となるもので、悲劇を少しでも減らすよう、社会に今までより大きな声で訴えかけている。

加害者と被害者の視認性からくる悲劇を、本作は描いているように私は思う。しかし、この作品を見ている観客こそが、きちんと社会の悲惨さを視ることができているのか? 加害者になっていないのか? 
映画に登場するキャラクターだけではなく、被害者であることを拒み、加害者であることを認識しようとしない、私たちこそが怪物なのではないか?これらの問いを、本作は投げつけているのだと思う。
そして、問いに対するアクションが起こせるのかどうかを、本作はナイフとして喉元に差し付けている。
私たちは、悲劇は見ない。
自分たちが加害になる可能性のあるものは排除し、それによって被害者が生まれていても、無視をする。
自分たちが怪物にはなりたくないからだ。
悲劇を無視した時点で、実は怪物に変容しているのだが、それを鏡で確かめようとすらしない。
悲劇の声は、音程すらとれないままトロンボーンから流れ出る音にも似ていて、私たちの日常に溢れ出ているのに、注目すらしない。
私たちの加害に対する視認性は低い。
視認性の低さに罪悪感を持たないことで、加害者になることを避けられると思い込んでいる。
それが私たちが生活を守る今までのやり方であった。
少年らの足取りのその先には、怪物である私たちがいる。
次の怪物として、彼らに対峙するのはいつになるのだろう?
私たちが自分たちに内在する怪物にどう立ち向かっていくかの問いを、本作は直球で投げつけてくる。


by &Riyo Narratify Co., Ltd.

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