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『それでも僕はここで生きる』 #2或る女

2.或る女
 「私に興味はないの?」彼女は言う。「ないよ」僕は答える。本当にないのだ。「そう」とだけ残して、彼女は去った。
その日僕は暗い路地にいた。ジメジメとした湿度が鬱陶しい日だった。履き古して穴のあいたニューバランスのスニーカーを履いて、スウェットを着ているというまるで近所のコンビニに出かけるような姿で。いつものことだ。行くあてもないのに外に出てジメジメした裏通りを徘徊するのだ。行くあてもないのに。
 それは突然だった。女が背後に現れたのだ。
僕は知らぬふりをして立ち去った。長いこと歩いて彼女を巻いたと思った僕は、無性にコーヒーと煙草が欲しくなって、近くにあった喫茶店に入った。無愛想な店主が一人で営む小さな店であった。枯れかけた観葉植物や、タバコで茶色く変色した旧式のエアコン。重い空気。店内は年季が入っているように見える。
僕はコーヒーとホットサンドを頼んだ。出てくるまでの退屈しのぎに煙草を吸いながら週刊誌を読んだ。
「 【激写】有名アイドルKと有名俳優Oのお忍びデート発覚!! 」
「ねえ、ちょっといいかしら。」僕が雑誌を読んで数分経ったところで、後ろから女が話しかけてくる。
「いいですよ。別に」そのいつもの通りに誰も幸せにしない記事しか載せない週刊誌にうんざりしていたところだった。手持ち無沙汰を紛らわすものならなんでもよかったのだから。
「私と結婚しない?」女はそう語りかけてくる。やけに自信満々に。
「いいですよ」私はそう答えていた。言ってしまってから我を取り戻した。だが僕はやけに冷静だった。
「そう」彼女は表情一つ変えずに受け止めた。この異常なやりとりを終えた僕たちの元へ無愛想な店主が僕のオーダーしたものを運んできた。
僕はそれらを受け取るとコーヒーをすすってまた雑誌に目をやった。
「ライター貸してくれない?」女が言う。僕は無言で机の上のライターを指差した。  
「ありがとう」女はそう言って煙草をくわえ、先端に火を点けた。また僕は雑誌に目を落とした。この女は、余計なことは一切喋らないと心に決めているようだ。
僕がコーヒーを飲もうと顔を上げると、女がホットサンドを食べている。 
「まずいわね」女は小声でそう呟く。「出ましょう、どこか別のところがいいわ」女に連れられるままに僕は会計を済ませて外へ出た。熱くて濃いコーヒーを飲みたい気分だったのだが。
彼女についていくことしか、その時の僕には選択肢は思いつかなかったのだ。  
無言で歩く女の後ろを今度は僕がついていった。僕ももちろん無言だった。前を歩く彼女の姿は、不思議と僕を魅了した。僕は彼女を昔から知っているような気分になった。遠い昔から惚れていたのだと錯覚しそうになった。無論、僕は彼女を今日、あの喫茶店で初めて見たのだが。
 長らく歩いた。公園らしき人影のない場所に辿り着いた。遊具もなければ明かりもない。ただ、ベンチのみが寂しそうに佇んでいる。まるで引き取り手のない子犬のように。
女はベンチに腰掛けた。暗闇の中で、あたりの橙色の街頭の薄い光に照らされた彼女が見えた。僕もその隣に腰掛けた。それは一種のデジャ・ビュであった。
なんの違和感もなく僕はそこに腰掛けたのだ。そこに腰掛けることがあらかじめ決められていたかのように。
「どうぞ」女は僕に向かって缶コーヒーを差し出している。いつ用意したのだろう。そんなことを考える間もなく、僕は無言で受け取り、開けて飲んだ。
さっきの喫茶店で飲めなかったという心残りがそうさせたのかもしれない。普段の僕なら、そんな見ず知らずの怪しい女からもらったものになど口をつけるような真似はしないからだ。だが、僕はとにかくそのコーヒーを飲んだ。体がそれを欲しているみたいに。女がずっと持っていたからか、生ぬるく、心なしか味が薄かった。不思議な味だ。まあこれも悪くない。そう思った。
「私に興味はないの?」女がいう。
「ないよ」僕は答えた。実際のところ、興味しかなかった。すでに僕の脳内は、この思議すぎる女のことで支配されていたのだ。 
答えた瞬間、僕は初めて女の顔を見た。あたりの橙色の街頭の明かりに照らされてぼんやりしか見えなくとも、とても美しかった。そのぼんやりとした明かりが彼女の美しさをより確固たるものにしているのかもしれないとさえ思った。   
僕は気づかぬうちにその一瞬の終焉を心の底から恐れていた。女は、沈黙を嫌うかのように素早く立ち去った。一瞬のことだった。
 僕の恐れていた瞬間はすぐ訪れた。
時刻はもう真夜中であった。かなり遠くに来ていたみたいだ。

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