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空海様への道①和気清麻呂

東京国立博物館 トーハクで開催中の『神護寺展』
京都の山深い場所にある神護寺の寺宝が沢山紹介され、これらの宝物が集まり、残ったはひとえにこのお寺が空海さまの拠り所として名を馳せてきたことにあることがよく分かる素晴らしい展覧会でした。

その中でも特に印象的だったこと、ものが5つあります。

①神護寺の歴史の始まり「和気清麻呂」
②神護寺復興の立役者「文覚上人」
③神護寺の宝物 1.後白河法皇奉納の『一切経』
④神護寺の宝物 2.八幡神の画像と東大寺のつながり
⑤神護寺の宝物 3.仏像
⑥神護寺の宝物 4.高雄曼荼羅

これらについてお話しようと思います。

①和気清麻呂

神護寺はもともと、『高雄山寺』というお寺があった場所に作られました。この時代『心願寺」というお寺もあり、このお寺を受け継ぐお寺にもしたかったようです。そして名前を『神護国祚真言寺』(じんごこくそしんごんじ)
略して『神護寺』となりました。

神護寺の前身寺であった『神願寺』は、読んで字のごとし、神様の願いによって作られたのです。
その神様とは、「八幡神」

日本の各地にある「八幡さん」のことです。

本拠地は大分県にある『宇佐八幡神宮』で、その御分霊があちこちにあります。

鎌倉にある『鶴岡八幡宮』
奈良県では『手向山八幡宮』が有名でして、あの百人一首にある「このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに」という歌は、奈良の手向山八幡宮を歌ったものです。

八幡神が、寺院を造ってちょーだい!
と願ったことから作られたお寺だというのです。

神様がお寺を造ってほしいって…と聞くと、我々は不思議な気がしますが、この頃『神様と仏教』が力を合わせることがおおいにありました。

そして、八幡神がこれを望んだことには理由があります。

奈良時代の終わり頃、天皇の跡継ぎをめぐって大きなピンチが訪れていたのでした。

大仏さんを造ったことで有名な聖武天皇という方がいますが、彼の跡をついだ皇太子は、女性だったのでした。

即位後の名前を孝謙天皇といいます。

彼女は、日本で初めて、女子で立太子して天皇になるべく教育を受け、そのまま即位した唯一のひとです。

しかし天皇になったものの、夫を迎えて子供を産めば、その子供は夫の血筋の天皇となっていまいます。

そういうことから生涯結婚はせず、世継ぎも決められず、生涯を閉じることになりました。

孝謙天皇も跡継ぎのことは、生涯に渡って懸念事項だったでしょう。

女帝は、自分を支えともに政治を司った「道鏡」という僧侶を天皇にすることを考えます。

そんな道鏡は、天皇と全然関係ないやん…と今の我々は思うのですが、孝謙天皇には、なにかしらそうしてもいい理由があったのかもしれません。

しかし、ことは国家の重大事ですので、この判断が正しいかどうか神様に判断を仰ぐことになりました。

そう、宇佐八幡の神様に、道鏡を次の天皇にしてもいいか裁可を求めたのです。

結果、神様の答えは「否」でした。

この神託を宇佐八幡神までお伺いにいって、その結論を持ち帰った人こそ、和気清麻呂なのです。

しかし、この結果を持ち帰ったことで、和気清麻呂は左遷され、名前を「和気穢麻呂」(わけのきたなまろ)と改名もさせられてしまいます。

現在このことを「道鏡神託事件」なんて呼んでいます。

この時、和気清麻呂は「道鏡を天皇にしてはならない」という神託とともに、「寺院を建立せよ」という神託も受けて帰ってきたのです。

その後和気清麻呂は失脚しますので、長らく寺院建立は果たせなかったのですが、孝謙天皇の跡を継いだ光仁天皇の息子・桓武天皇の時代になってやっとお寺を建てることができたのでした。

この心願寺とは別に、和気清麻呂の一族が造ったのが『高雄山寺』です。

この高雄山寺には、和気清麻呂のお墓もあるので、和気の一族の氏寺みたいな感じだったのかなあと想像できます。

昔から清らかでふつうの人はあまり行かない清浄な場所だったのでしょう。

中国から帰ってきた空海様は、この高雄山寺に入るのです。

そして潅頂という密教の大事な儀式もここで行いました。

このふたつの寺院が合併してできたのが『神護寺』なのです。

空海様にとって始まりのお寺であり、日本の密教の出発点と言える場所が、ここだったのです。






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