見出し画像

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に寄せて

2021年は自分にとって3度目となる年男の年だ。36歳、丑年。

36年しか生きていない自分にとって、24年という期間はやっぱり長かったと思う。エヴァを知ってから終わるまでの歳月。いろいろあった。

思い返してみれば最初にエヴァンゲリオンと出逢ったのは『シト新生』公開前夜、深夜でのアニメ再放送だった。PUFFYや安室ちゃん、JUDY AND MARYなどのJ-Popに興味を持ち始め、毎週土曜の0:55から始まるカウントダウンTVを心待ちにしていたあの頃。たまたまチャンネルをザッピングしてたらわけわからない、細身でなで肩の3人が真っ白な空間に裸のまま閉じ込められてるシーンを見た。あれが第拾参話『使徒、侵入』だとわかるのは後々の話。その時はエヴァ独特の画と台詞の神秘性、そして「深夜」になんかワケわかんないすげぇモノを見てしまったという興奮がどばばばばっと脳内を駆け巡った。

1997年3月。年男を迎えた最初の年。14歳すら迎えていない12歳のガキんちょに突如訪れた衝撃だった。

そのちょうど24年後。新世紀にストーリーまでもリスタートさせ結末を引き伸ばし続けたエヴァンゲリオンは2度の公開延期を経て、2021年3月に終劇した。

まさか同じ丑年の同じ3月に同じ作品で同じように感情を揺さぶられることになるとは思っていなかったなぁ、と。

でも、揺さぶられ方が全然違った。

昔はいわゆる思春期にモヤモヤと葛藤するようなあの感覚。何でボクはココで生きてなきゃいけないんだろう?という心の葛藤。中二病って言葉が出来るくらい一般的になったアイデンティティの喪失とでも形容した方が良いうじうじとした感情に対する心の拠り所のような作品としての共感だったのだが、今回は違った。

第三村でのトウジやケンスケ。シンジに対するアスカの思いやり。そして精神的にゲンドウを超えていくシンジ。

顕著だったのは母となったミサトだった。エヴァ初号機に乗るシンジを見送る際、旧劇版では「大人の女」として接したのに対し、今回は「母」として特攻した。あの場面がすべてで、大人の女性に慰められたかった少年は母の立場を超え一人の大人としてエヴァを卒業していった。それは紛れもなく24年の歳月を共に過ごしたわたしたち鑑賞者であり、エヴァを作った制作者自身であったように感じた。

そう、みんな気が付いたら立派なオトナになっていたんだよね。一緒に歳をとった。

思春期のモヤモヤは24年経って一人前の人間として社会に立つ清々しさに変わった。24年前にはじめたいろいろにキチッとケリをつけてくれた。旧劇のような破壊と混沌で終わるラストではなく、エヴァ史上初とも言える前向きな終劇に。2度の延期で3月という桜と卒業に相応しい時期に公開になった事も快方に向いたと思う。終劇を見届け、バルト9のエスカレーターを駆け降り出た外の空気がちょうど最期を見届けた清々しさと一致していたのは何とも言えない偶然だ。

さよなら。すべてのエヴァンゲリオン。

終劇を見届けたミサト・加持・リツコと同世代の年男として、もう何回かは映画館に足を運んでしまうかもしれないな。終わったという清々しさをもう一度体感する為に。こんなにも終わった余韻に浸っていたい作品と同世代を歩んで来れたことは、もしかするととてつもない幸運だったのかもしれないね。

この記事が参加している募集

note感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?