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自分の感受性くらい、自分で守ればかものよ

悩んだ時、何かもやっとしたものを自分自身に抱えている時、私はこの詩にいつも叱咤激励してもらう。生きていたら会いたかった人ランキング1位の茨城のり子さん。そして私が一番好きで、一番読んでいる詩。物事や出来事にモヤっとした時ではなく、自分自身にモヤっとした時、私はいつもこの詩に帰ってくる。

悪くないスタート

 新しい環境、関係の中に身を置いて4ヶ月(詳しくは前回の記事ですが、見なくても大丈夫です)。たくさんの人と出会い、たくさんのここでの「常識」を知り、今の場所に合う「自分の生活」を模索してきた。
 異動してきたばかりの時は、とにかく寂しくて心細くて、でも早く今の場所で根を張りたくて、「一歩前進」どころか、「一歩後退」しないようにという気持ちの方が強かった。支えてくれる人、応援してくれる人がいたから、後退せずに微々たる前進をしてこられたのだと思う。何かを削って今の場所にいるのではなく、積み重ねてここにいられていることは、本当に幸せだなと感じながら。

 新しい環境に身を置くのは、初めてではない。中学校、高校、大学、初任校、2校目、そして今3校目と、この19年、3〜4年おきに、必ず私は新しい場所へと身を移してきた。自分の意志であった時もあれば、仕方なく移った時もある。だから、時間が経てば慣れてくることも、人付き合いは長い目で見ていくべきものであることも、本当にいろいろな人がいることもわかっているし、もうそれなりの年齢でもあるので、確かに「知らない人しかいない場所」というのは苦しいけれど、いずれ「知っている人たちがいる場所」「私のことをよく知ってる人たちがいる場所」に変わっていくと思っているので、悩むほどのことでもないのもわかっている。そして、新しい場所に行ったからこそ見える景色、気づけること、自身の成長があることもわかっている。むしろ、私は飽きやすい性格でもあるので、同じ場所に留まるより、新しい場所を好む性格でもあるなと、自己分析している。そして何より、私にはそんな自分を信頼して、応援してくれる、付き合いの長い大事な人たちがいる。

では、何にモヤっとしているの、私!

 では、何にモヤっとしているのか。なかなかそれがわからなかった。なんとなく、自分らしくないような、でもこれが今の自分なのかもしれないし、充実していないわけでもないのに、充実感を感じられないし、とにかく可もなく不可もなく、ほんの少しだけ鬱々しているような。厄年(本厄)だから仕方ないのか?なんて、極端なことを考えたり。

 新しい環境で、今までの自分の働きぶりを知らない人たちの中で、今までの流れをわかっていない私が仕事をする緊張感や働きにくさ。確かに、慣れた場所で仕事をするよりはストレスを感じる。でも、これもまた、観察力やより良い進め方の模索をしてくのに必要なストレスで、慣れきった仕事ばかりをするよりもいいのだと思う。いろんな経験をした方が、いろんな人の気持ちもわかると思うから、やってみてダメなた教えてもらって、直していけばいい。

 どんな考え方の持ち主かわからない相手とのコミュニケーション。私の場合は、生徒しかり、教員しかり。プライベートでの関係なら、そんなに気負わないのだが、これから仕事をしてく相手、これから深く関わっていく相手となると、どうにも緊張やら考え過ぎが勝ってしまって、当たり障りのないコミュニケーションに止まってしまう。本当はもっと仲良くなりたいという気持ちがあるからこそ、これもまあストレスだが、元々自己開示が苦手なので、時間をかけていくしかないなと思う。前任校では、爆弾のような子供たちに囲まれ、余裕がなかったからこそ、取り繕うこともできず、ゆっくり考える暇もなく、今までにない速さで周りが「私」を知ってくれたのだなと、ここ最近気がついた。本来なら、そうはいかなかったと思うから、これは子供たちのおかげだなと思う。喜びも悲しみもイライラもダダ漏れだった私を受け入れてくれていた職場の懐深さも、今になってより一層感謝したいなと思う。

 比較するものや、経験を積んできた今だからこそ、ここでの制度や不足に敏感になってしまうこと。これもまた、口を出したいけど出せないような、まだ役不足であるような、もどかしい感覚でストレス。「そんなに知らない若者でもない。もう2校も経験してきたし、その都度役割を全力でやったから、わかることも多いよ、私」と思いながら、結局まだ主として動く立場でも、この学校を知ってる立場でもなく、あまり自分がいてもいなくても変わらないことが、悲しかったりもする(でも、組織としては、誰かがいないと回らないなんておかしいから、あっているのだとも理解している)。でも、今のポジションだからわかることも、使える時間もあるのだから、無い物ねだりでもあるとも思う。
 
そして自身の力不足。これは努力するしかない。知識の不足、経験値の不足、行動の不足。これは自分に折れない程度の負荷をかけていくしかないし、変わりたいなら、逃げずに時間や労力をかけるしかない。

などなど、などなど。もっと細かいことをあげればキリがないくらい、自分の中でうまく行っていないことはある。仕事がメインではあるが、自分が大事にしたい特別な人間関係においてもそうである。けれど、こんなことは私だけではないんだろうと思う。自分が望む理想の環境なんてないし、一人で生きているわけではないので、絶対に「不満」も「不安」も出てくる。それに、こういうモヤっとは自分が成長するため、変わっていくためにも必要なこと。だから、こういうことは抱えながら進んでいくのだし、時に信頼してる人に相談したり、発散したりしながらいくしかないと整理できている。

では、なんなのだろう、私のモヤッとは。
そうしてやっとピンときたのが、「自分で考えて生きていく」が疎かになっているからだということ。「知らなきゃ」「わからなきゃ」「慣れなきゃ」「楽しめるようにならなくちゃ」「大事にしなきゃ」「伝えなきゃ」「充実しなきゃ」。
そう、「〇〇しなきゃ」の大盛り、おかわり。
「〇〇しなきゃ」と思っていることの内容の方向性や、思うこと自体は決して悪くないと思う。でも、この「〇〇しなきゃ」は本当にしなきゃいけないことなのか?私は、そうしたいと思ってるのか、したくないけどしなきゃならないのか?「なぜ」しなきゃならないのか?という、問いが疎かになっている。散々子供たちには物事の「なぜ」を考えなさいと言ってきたのに、情けない。

決めるのは、自分。

 わからない環境であることを理由に、「周りもそうだし」「大体の人がそんな感じだし」を理由に、「〇〇しなきゃ」思考になっていないだろうか。揉めたくない、嫌われたくないを理由に「〇〇しなきゃ」思考になっていないだろうか。
 私自身が好きな自分でいたいから〇〇したい
 私が好きな人を大事にしたいから〇〇したい
 周りの人たちの助けになりたいから〇〇したい
 生徒に気づかせたいから、一生懸命やってるから、〇〇してあげたい
そういう自身の「〇〇したい」を置いてきぼりにしていたのだと、ハッとした。
行動を決めるのは、自分。言葉を選ぶのも自分。相手の軸に乗ってはいけない。自分の軸があって、相手の軸を尊重したり、尊重してもらったり、時にはばっちり合致したり、合わないから距離を取ったり、そうしていくものなのに。自分軸生きていないということは、誰かの・何かのせいにしてしまうということ。まさに、茨木のり子さんのいうように。
自身の感受性に水やりをしていなかったのだから、客観的に見れば充実してるはずの自分の毎日が、私には楽しく感じられなかったわけね。



ばかものからの脱出

ということで、私はばかものから脱出したいと思って、今の気持ちをアウトプットするために、久々にnoteにタイピングしている。
やりたくない仕事が降ってきても、「〇〇のためになってるから、もっとこうしよう」「どうせやるなら自分のスキルアップのために〇〇したい」とか思う自分でありたいな。
忙しくても「でも、ここを乗り切って〇〇な気持ちになりたいな」「生徒の成長につながるなら、ここは時間を犠牲にしても〇〇したいな」と目的を見つけてやれる私でありたいな。
「当たり障りなく」を優先せずに、自分の考えを臆せず伝えられる私でありたいな。「すみません」ではなく、「ありがとう」をたくさん伝えられる私になりたいな。
好きな人たち、周りの人たちを大事にするために、私を後回しにしたり思考を止めるのではなく、まずは私を大切に、そして同じように相手を大切にできる私になりたいな。相手が前、自分が後ろではなく、隣にいるような。

きっと、何度もこれからも繰り返すモヤっとだとは思うけど、一度ここで文に起こしたことは行動を変える原動力になると思う。ちょっとずつ、一度きりのこの自分の人生を楽しむために、自分の感受性を大事にしていこうと再出発!

追伸
長い(文章も、書くのにかかる時間も)・・・あまり文章を書いていない4ヶ月で、すごく文を書く力が落ちてるなと実感。
何かをアウトプットしたい!と思えるように、インプットを増やしていきたいな。

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