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「無駄」について考える  ゆっくり、いそげ〜カフェからはじめる人を手段化しない経済〜

先日、妻との会話の中で、「今、レンタルビデオ屋に行く人はどれくらいいるのか?」という話題になった。

この話が出た時、真っ先に今ちょうど読んでいるこの本のことが頭に浮かんだ。

前回読んだ、「世界は贈与で出来ている」という本の中で、こちらの本の一説が引用されており、その一説を読んだだけで衝動買いしてしまった本である。まだ、全部は読んでないので、詳細は後日また書くとして、この本を基に、自分が考えたことを書いてみようと思う。


現在、Amazon primeやNetflix、Hulu等々、わざわざお店に行かなくても家で映画は観れるようになり、少し前と比べても格段に利用客は減っていると思う。
私自身も、ほぼ行かなくなった。


では、これは良いことなのか?

効率という点で見れば、もちろん良いことだと思う。
店までの往復の時間も、出かける為の準備も必要なく、しかも、金額もほとんど変わらない。延長料金も発生しない。間違いなく、良いことだと思う。

ただ、良いこと「だけ」なのか?とも思ってしまう。
「大事なのはこれだけではない」のではないか?



レンタルビデオやレンタルCDのように最近無くなったもの、見なくなったものは、自動化に置き換えられそうなものがほとんどだと思う。(将来的には、コンビニの店員や、タクシー・トラックの運転手なんかもそうなるかも)、いわゆる「無駄」を無くそう。という時代の流れである。

では、ここでいう「無駄」とは何なのだろうか。
私が思うにこの場合、「効率化を図る上での無駄」ではないかと思う。

レンタルCDに関して言えば、私も今でこそ音楽はspotyfyで聴いているが、高校、大学の頃は毎週の様に、レンタルCD店に通っていた。
では、あの頃と現在、どちらが良いのか。
前者と後者、圧倒的に違うのが、それに費やす時間だ。
自転車で店に行き、棚からCDを探す。目当てのものが借りられていれば明日、再チャレンジ。返却されていないか、1日に2・3回足を運ぶこともあった。この手間があったおかげで(費やした時間に比例して)今より1枚1曲を大事にしていたような気がする。

毎日食べているお米にしても、例えば農業体験なんかで、植えるところから収穫まで自分が携わった場合のお米と、スーパーで買ったお米とでは価値が違う。例え、購入代金が高かったとしても、自分で作った方を選ぶと思う。それは、自分で作ったお米の方が自分にとって価値があるからだ。


効率化の点から見ると、この農業体験で行うような作業こそ無駄である。素人が作ったお米より、スーパーで買う方が早いし美味い。だが、この無駄な部分こそが、価値と感じる部分なのではないだろうか。

この無駄こそが価値。つまり、無駄には価値があるんじゃないかと、私は思う。


前述したトラックドライバー。こちらも究極的には、将来自動運転によって無くなることもあるかもしれない。
だが、例えば配達時、老夫婦の代わりに重たい荷物を家の中まで運ぶ。なんて行為も、効率で見ればやっぱり無駄かもしれないが間違いなく価値がある。
総合的に見れば、機械が物を運ぶことが主流になってしまうかもしれないが、そのような価値の必要性は決して無くならないと思う。


昔の方が良かったなんてことを言いたいわけではない。
今の便利な世の中の恩恵はめちゃめちゃ受けているし、もう携帯が無いと生きていけないレベルにまで達している。
ただ、昔と今、効率と無駄、どっちが正しいという二極化にするのではなく、共存出来ないか、という話だ。

「ゆっくり、いそげ」の本の中では、この2つの価値が同じ土俵に立ってしまっていることが問題だと述べている。
今の世の中は、例えば先程のお米の例でいうと、この2つのお米が、同じスーパーの、同じ棚に並んでしまっている状態らしい。
これでは、素人が作ったお米が選ばれないのは当然であり、必然的に価値は無くなる。
しかし、そもそもの価値が異なるのであれば、役割も当然違う。
どちらの価値であっても、必要としている人や場所は必ず存在するのではないだろうか。


これまで自分が無駄と感じていたもの、あるいは今にも捨てたいと思っているもの。
これらにも、何か必要とされるだけの価値はあるのかもしれない。


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