キャリアプランなんてクソ喰らえで、来た球をひたすら振ろう

誰もが社会に出るころ、いろいろなことを考えていたはずである。30歳の時にはこうなりたい、40歳ではこうありたい。うまくいく人もいるが、うまくいかない人が大半だろう。

うまくいかない人が何も考えていないかといえばそうではない。考えてもうまくいかないケースがほとんどだ。むしろ、考え過ぎなのではないかというのが僕の結論である。

理想を持つことはいいことだ。だが、理想に縛られすぎてもいけない。

こう指摘すると、「大谷翔平やイチローは高い理想をかかげて実現した、理想は大事である」との声もある。確かにそのとおりである。だが、いやらしい言い方になるが、結局、考えたところでうまくいかず、大谷翔平やイチローのようにはなれなかったのではないか。理想に近づくために、何が必要かを判断し、正しい努力をできなかったのではないか。考えたはずの結果が今のポジションなのである。

それならば、あまり先々のことを考えないで目の前の仕事や遊びに没頭したら違う未来がまっているのではないだろうか。キャリアプランなんてクソ喰らえで、来た球をひたすら振る方がハッピーな人生がひらけるのではないか。

「なんだ、どうしたんだ今回は」「背中でなんか語り始めたぞ」「うすっぺらい背中で偉そうに語るな」と非難されそうだが、前回のライター論の続きである。「夢破れた私でも何とかいけそう」と社会人が新たな夢に設定しがちなのがライターなのだ。

「このくらいの文章ならば、私でも書ける」「3年後には本の1冊でも出して、それを名刺代わりにセミナーを開いてガッポガッポ儲けよう」。

日本語は私も書ける。資本もいらない。それならばできるはずだ。そこには文章に対する愛着も敬意もない。

前回、ライターは儲からない構造だと書いた。儲からないのに、儲かる理想を描いて、始めるのでおかしなことになる。少し軌道に乗ると、仕事を取捨選択する。夢のためにはぐずぐずしていられない。受け仕事はしたくない、単価が安いからやりたくない。私はもっと価値があるし、うまくやれるはずだとなる。当然、うまくいかない。地道に目の前の仕事を黙々とこなすことでしか、道は開けない。

考えればわかるだろう。例えば、あなたが人気作家になったところで、それは出版社からの受け仕事だ。いくらでも、代わりはいるのである。個性派俳優だろうが、無頼派作家だろうがカリスマ外国人経営者だろうが、今話題の大御所芸人だって、いなくなっても日常はまわる。
 
 仕事にこだわりは持つべきだ。だが、こだわりを持つ人と面倒くさい人は違うのだ(つづく)。


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