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「〜したくない!」の代わりにしている事って何?

「〜したくない!」

こういう表現って日々よく出てくる。
数えたことはないけど日常の中でかなり多く言っている気がする。

これは人によって全然違うと思うけど、少なくとも意識に上がってくるレベルだけでもかなり多い。

「〜したくない」
「〜はイヤ(だから〜はしたくない)」

みたいな感じ。

いわゆる否定形の表現で色々な事を表すクセみたいなのがある。
ふと、どうしてなのかなと思った。

これまでこの部分を立ち止まって見る事って中々できなかった。
今回少し見る事ができたので表してみたいと思う。

感情の波と「否定形」

否定形の表現が出てくる時ってほぼ自動的で止めようがない。
「そう感じたから」としか言いようがないくらい反応が早い。

不意に苦手な食べ物を口にして「おえっ」てなっちゃう時や、苦手な匂いを嗅いで反射的に「くさっ!!!」って声が出ちゃうくらい早いしとめられない。

「〜したくない」


こんな表現が出てくる時っていうのは、冷静に言っていたとしても本当はそうじゃないのかもしれない。むしろ、自分にとってネガティブな感情の波がとても大きく働いている時なのではないだろうか。

感情の波が大きければ大きいほど「〜したくない力」は増していく。
これまでの関係性、義務、責任、規範…なんでもいいけどこれまでの自分を構成している様々な約束やルール、あるいは束縛を簡単に断ち切れるほど、その力は増していく。

本当は「〜したくない」って思っているけど、先程述べた「約束やルールがあるから」と我慢していくと…最終的には爆破オチになる事が多かったなって振り返ると思う。

過去の向き合い方と変わってからの向き合い方

この数年間かけて「〜したくない」との向き合い方は随分変わったなと思う。

それまではまさに我慢するという選択を選んでいた。
それがイケない事でもダメな事でもない。

けれど、ただ我慢をする…という事でいつまで経っても終わりがない戦いをしているだけだった。

「耐える事は結構得意。全員いなくなっても自分だけは耐えます」

みたいな事を、むしろプライドにしているような節があったけれど…終わりのない戦いは、ただ自分を蝕んでいくだけだったなって今なら思う。


その後、向き合い方が変わるようになった。
きっかけはそういう自分にそれこそ我慢できなくなって「爆発」した時からだった。

どう変わったのか?
簡単に言うと、

『「〜したくない」に出会ったら、勇気を持って「しない」を選択する』

という事だ。とはいえ、「しない」を選ぶのはそんなに簡単ではなかった。
時間をかけて少しずつ「〜したくない…けどする」から「〜したくない…ならこの気持に従ってみては?」に進んでいき…やがて「うん、そうする!〜しない!」と、なるに至った。

「〜したくない」と感じてもすぐに「しない」を選択できなかった事はもちろんあった。とっても多く。けれど時間が経つと最終的には「しない」を選ぶという事実が時間をかけてたくさん積み重なっていった。

「結局そうなるんやったら、もっと早く反応しよう」

みたいになってきた。

「〜したくない」は進んではいけない方向は分かる

時間はかかったけど「〜したくない」という事に対して、素直に認める事ができるようになってきた。

しかしながら一方で”認める”という行為を選べるようになったせいなのか「〜したくない」という感情の波は以前に比べてとてつもなく大きく感じるようになってきた。

一度堰を切った「〜したくない」は自分の中の防波堤をいとも簡単に壊してしまうようになったのだ。

確かに「〜したくない」という気持ちに素早く気づき行動できるようになったため、無用のストレスを感じたり事は少なくなった。その分精神的にも体力的にも削られる事が少なくなったと思う。そういう意味での得は間違いなくある。

「〜したくない」というのは今現在、その状況における自分にとっては正しい指標

なんだろうと思う。

「今現在その状況」と「自分にとって」

あくまで「今現在、その状況」と「自分にとって」という条件下においてではあるが。決して集団や社会的に正しいという意味ではないし、ルールや規範として正しいという意味でもない。

「〜したくない」は自分にとって「そっちに進んだら自分は間違いなくしんどくなりますよ?」と問いかけてくれるようなものなんだと思う。

自分にとって本当に苦手な匂いを嗅ぎ続けたからといって、苦手がなくなる事はない。(鼻が麻痺して匂いがわからなくなるかもしれないけど)

自分にとって本当に苦手な食材を口にし続けたからといって、急に食べられるようになるわけではない。

場合によっては「余計嫌いになる」とか「余計〜したくない」を強化するきっかけにすらなってしまいかねないのではないだろうか。状況が変われば、匂いが気にならない時もあるかもしれないし、調理方法が変われば苦手な食材も口にする事ができるようになるかもしれない。
そういう可能性だって本当はありうる。

けれど、とにかく「今現在その状況」の「自分にとって」は「〜したくない」というのは正解なんだと思う。

自分にとってそちらに進んではいけないという事をしっかり示してくれているという意味では、強力なナビゲーションシステムの一つと言っていいのかもしれない。

車のナビでこういうのは見た事ないけど、進んではいけない道だけやたら教えてくれる…みたいなナビの仕方だと思ってもいいかもしれない。

けど困った事に…

ナビが便利なのは行き先に対して適切な道を教えてくれるからである。
けれど、「否定形」のナビが教えてくれるのは「そっちに行ってはいけませんよ」だけ。

「〜したくない」なら「(その反対の)〜がしたいんだ!」

こんな、そっちがダメなら反対側に…みたいな作戦が成功する時もある。
けれど毎回成功するわけではない。

もしかすると、ものすごく時間がかかって行きたい場所に着く事はできるのかもしれないけど…。

可能性が高いわけではない。場合によっては3,4点くらいの「そっちに行ってはいけません」の間をグルグル延々に回り続けるだけになってしまう時だってあるかもしれない。

「〜したくない」に素直にならず爆発した過去があったが、この「否定形」の間を延々グルグル回るのも、どう考えたって楽しくはない。救いがないと言ってもいいかもしれない。

これは自分自身の体感として、とても強くある。

では、どうすればいいのだろう?
どうすれば「否定形」のグルグルを抜け出していく事ができるのだろうか?

「〜したい」を探す

そこで今回一つ今回試してみようと思った事がある。
それは…

「否定形で出た表現(〜したくない)」の結果としてどんな肯定的行動を取っているのか(取りたいと思っているのかに注目する

と、いう事。ちょっと言葉にすると分かりにくい。
簡単に言うと「〜したくない」よりも「〜したい」に注目するという事になる。

個人的な性質として

これはこれまでの生き方が存分に反映されている所だと思うので、人によって本当に違うと思うんだけど…

今、自分は「〜したい」という明確な気持ちが表に出てくる事ってそう多くはない。意識の上では。けど出てきた時はすごく強烈な強さがあるので実行せずにはいられなくなるし、徹底的にやりきるまでしようとする。

元々そうだったのか?と言われるとそうではなかったと思う。
自然に「〜したい」という気持ちをたくさんもっていたしトライしたり失敗したりいっぱい繰り返してきたと思う。

その中でじわじわと「〜したい」という気持ちを持っている方がしんどいと思うようになってきたんだと思われる節がある。(ここ話すと長いのでカット)その中で段々「〜したい」という気持ちを表面に出さなくなっていき、自分の意識で拾い上げる事がそう簡単ではなくなっていったんだと思う。

その割に「〜したくない」は強烈に出てくる。人と比べようのない事だから断定できないけど、多分からなり強烈に「〜したくない」と思っている。この波の激しさって「〜したいしたくない」だけじゃなくて「〜したい」の時も同じなんだと思う。

あくまで自分の中での観測事項だから何もかもがあやふやだけど、こうした2つの波が自分の中でストレートにぶつかるのは得策ではなかったんだと思う。あまりにも強烈な波がぶつかりあったら、それに耐えるのはあまりに厳しい。体や心への負担も強烈なものだったのだろう。

そこでなんとか片方を眠らせる事にした。
「〜したくない」というのはある種の生存本能とでも呼ぶべき、恐るべき力があった。こちらをなくす事はできなかった。よって選ばれたのは「〜したい」の方。少しずつ少しずつ時間をかけて、様々な体験の中で慎重に巧妙に削り取っていった。

そして表面上の意識に上がりにくくなったという訳だ。

もちろん、全く「〜したい」がないわけではない。何かに絶望しているわけでもないし世の中を恨んで過ごしているわけでもない。

すごく身近ですぐ目の前の事に対して「〜したい」という思いは割とわかりやすく持っている。

部屋をきれいにしたい…とか片付けたい…とかNotes書いてみよっかな…とか。「次のファシリテーションではこんなアクティビティをやってみようかな〜」とか。

近くて早い未来の事に関しては「〜したい」と思っているし、「即実行」している。

けれどもう少し先の未来とか、随分先の未来に対して「〜したい」というのは意識に上がってこない。本当はあるけど見ていないのか、本当に意識の中にないのかは不明。

「〜したい」を探すのは難しい…人もいる

こうした自分自身の現在の性質があるから、「〜したくない」よりも「〜したい」に注目するというのは簡単ではない。

めちゃくちゃ近い場所にナビを設定するとかろうじていけるけど、遠くの方をナビで設定しようとしても「そもそもできない」になってしまったり、「そういう場所はありません」みたいな答えが返ってきてしまう感じなのだ。

ここ数年で「〜したくない」を素早くそれなりに正確に捉えられるようになった。そして「しない」という選択を取る事もできるようになった。一方で「〜したい」については捉えられていないし、当然選択する事もできないでいる。

「〜したい」を探すのは重要な事だが、自分にとってはそう簡単ではない。正直、単純に「したい事」を捉える事ができたならば四の五の言わずそれをすればいい。それがきっと一旦行ってみたいナビの目的地である事は間違いないし、どうやってそこに行けばいいか考えるだけになる。
とってもシンプル。その過程で「〜したくない(行ってはいけない)」に出会った時どう対処すればいいのか対応すればいいだけなのだ。

「〜したい」と心から思っている場合の目標はとっても自分を前向きにするし行動力の源にもなってくる。もっと言うと実際にそこに到着しなかったとしても道中楽しい。

遠足は目的地でどうこうするだけが楽しいのじゃなくて、道すがらも楽しい。あの感じと似ていると思う。

だから「〜したい」時は四の五の言わずに「やればいい!」と思っている。

「〜したくない」の代わりに実際している事は何?

「〜したくない」と否定形で表現が出た時、「本当はしたい事」がはっきりしているならそれに向かってどうこうするだけでいい。この場合はシンプル。

きっと「本当は〜したい」のに全然やりたくない何かをしなければいけない状態で思っているのだろう。その大きなギャップが自分を苦しめてしまうかもしれない。しかしながら向かう方向が分かっている。極論、後はどうクリアするかだけだ。

今回はそういうシンプルに「本当はしたい事」がわからない状態の時の事を考えたい。


例えば「仕事したくない!!」場合で考える。

さっき言ったように「本当は遊びたいのに!」というような「本当はしたい事」がはっきりしているなら、後はこれをどうクリアしていくかを考えるだけになる。週末の休みまで自分を納得させる…思い切って休む…など色々な手を考える事ができる。

でもそうじゃない場合の時が今回。
「もうわからんけどとにかく仕事したくない!!」
強い否定形の表現で出てきた時はきっと感情の波も激しいだろう。

そんな時は結果として会社に行く代わりにどんな行動を取ったかに注目する。今回はこの結果として「家にいる」事を選択したとする。

こういう時は往々にして「仕事したくない!!!」という強い気持ちが後々にも残るものだし記憶の中からもそれ意外の事が抹消されがちだけど…実際にその代わりにとっている行動があるはずだ。

それを肯定的に捉えて確認する。
言い換えると「代わりに取った行動は(少なくとも否定形のものよりは)〜したい事」と捉えるのだ。

これはあくまできっかけにすぎない。自分にとってベストな答えではない。けれど、「少なくとも否定形よりはマシなしたい事」に含まれるはずなのだ。

「〜したくない」というのは今現在、その状況における自分にとっては正しい指標

と前に書いたけど…これを言い換えると

「代わりにとった行動は(少なくとも否定形のもよりは)〜したい」というのは今現在、その状況における自分にとっては正しい指標

とも言い換えられるのではないかと思う。
ここでも重要なのは、「今現在、その状況」の「自分にとって」は正しいという事である。

今後「会社に行きたくない!」と思った時に、「家にいる」という選択が常に正しいという訳ではないということだ。

「代わりの行動(よりマシな〜したい)」を集め傾向を見極める

「〜したくない」という強い感情の波を伴う否定形は、それだけで記憶の容量を圧迫するらしい。そう思った場面以外にも日常の中で様々な体験があり感じた事もあるにも関わらず一番ショッキングで大きな出来事が記憶に残りやすいらしい。

その仕組自体はどうこうできないものかもしれないけど、それに任せたままだと「〜したくない」をグルグルする事になる。

「〜したくない」と感じ代わりに「実際に行った事(否定形よりマシな〜したい)」を集めていく

そうすると、「〜したい」の傾向が見えてくるのではないかと思う。
「〜したい」の自分自身の事例を集めていく事によって、より確度の高い「〜したい」に行き着くのではないかと思う。

これはあくまで試みだ。
ここからは自分自身、試してみて実際どうなるかを確かめようと思っている。

何度も言うが、これは「〜したい」という事が不明確で「〜したくない」だけが強くはっきりしている時に使えるのではないかと思う方法だ。

「本当は〜したい!」とはっきり思っている時は、とにもかくにもそれを指標にしてみるといい。ただ、「本当は〜したい!」が実はそれ自体が本当じゃない時も大いにありうると思う。

だから、「実際に行った事(否定形よりはマシな〜したい)」を集めていく事は「本当を見極めるためにも有効」なのではないかと思う。

これも仮説に過ぎない。全ては実験してみてのお楽しみ。

ネガティブをポジティブに捉え直すという意味ではない

最後に、勘違いするとおかしなことになるので書いておきたい事がある。
今まで言ってきた事は…

「〜したくない」というネガティブな表現を、「〜したい」というポジティブな表現に直してみようという試みではない

直すのではなくて「〜したくない」代わりに取った行動を肯定形で捉えるという試みだ。
記憶に「〜したくない」が強くインプットされるのは仕方ないとしても…。代わりにとった実際の行動を収集していく事で、自分にとってより確度の高い「〜したい」を探す助けになると思われる。こうした目的のために行う試みだ。

だから「ネガティブをポジティブに直す」と捉えてしまうと目指している所とズレていってしまうし、きっとすごくしんどくなってしまうと思う。

なのでこの点は気をつけたい所。

最後に

今日書いたのは今現在の試みてみようと思う事を忘れないようになるべく丁寧に書いてみた。また追記する形で実際どうなった書いていくかもしれない。

いつになるかわからないけど…

お楽しみに!


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