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社長にはなれないと思ってた


プロローグ

こんにちは。株式会社ALL IS NEWの代表をしている吉田直哉です。初めて知っていただく方も多いと思うので少し自己紹介をさせてください。
弊社は東京都(渋谷)と福島県(いわき市)の2拠点で事業活動をしていまして、実際に自分もこの2拠点を中心に仕事と生活をしています。具体的には毎月1週間前後は福島、残りは東京、時々その他の地方へ出張という感じで動いてます。

事業としては転職エージェント、採用コンサルティング、ECコンサルティング、アパレル事業、地方創生事業と幅広く、そこに加えて非常勤講師として文化服装学院の講師の仕事もしています。(週2コマの講義を担当しています)

プライベートでは渋谷、青山、三茶界隈をよく飲み歩いてまして、ホームパーティーも定期的に開催してます。つまり酒飲みです。仲良くなるとすぐ飲みに誘うので気をつけてください。

さて、そんな私ですが、これまでちょくちょくSNS(特にX)は更新してきたものの、ちゃんと長文で自分のことや自社のことを発信してこなかったなという反省がありまして、「今年はnoteと動画配信をやります!」と社員の前で公言してしまったが故に、いまこうしてPCと向き合いながらnoteを書き進めていると。そんな状況でございます。

その1発目ということで、まずは自分がALL IS NEWを設立するまでにどんな考えや感情の動きがあったのかを、なぜ会社を興したのかを、お伝えしたいと思います。

「おれ、社長になりたい」

私は福島県いわき市の湯本という街に生まれました。昔の話になりますが松雪泰子さん主演の「フラガール」という映画があったことをご存知でしょうか?まさにその舞台となった街です。
生まれた当時は父の仕事の関係で家族は茨城県の鹿島に住んでおり、自分も5歳までは鹿島で育ちました。その後、高校を卒業するまではずっといわきです。
野球をやっていた父の影響で中高は野球部に所属。特に高校時代は一切勉強せず、野球漬けな日々を送っていました。まぁ今振り返ると野球を言い訳に勉強しなかっただけなんですが。所属していた高校は甲子園出場も多数ある磐城高校(なんと過去最高成績は甲子園準優勝!)という地元の高校で、強豪校だっただけに練習も規律もそれはそれは大変ハードな環境でした。当時の先輩方、その節は大変お世話になりました…
ただ、子供がそんな野球部に入ってしまうと、家族の巻き込まれっぷりが大変なわけです。朝は毎朝始発で朝練に向かい、夜遅くに練習を終えて帰ってくる。正月以外は基本的に休みはなく、シーズン中は毎週末遠征も含む対外試合。やってる本人は自分が好きでやっているんだから良いのですが、それを支える側の家族は本当に大変だったと思います。そしてなにせお金も掛かる。野球っていちいち道具も高いんですよね。

割と昔から俯瞰で見るタイプだったこともあり、野球をやっている当時から自分の好きなことに付き合わせてしまって申し訳ない気持ちと、決して余裕があるわけではない生活の中、金銭的にも大きな負担を掛けてしまっていることに負い目を感じながら過ごしていた気がします。

そんな背景もあり、「将来は必ず自分が大きく稼いでみんなに恩返しせねば!」という思いを強く持っていました。

高校3年の夏が終わり、残念ながら甲子園に出場できなかった我がチームはそこから本格的に受験勉強が始まります。が、いままで散々野球に縛られていたからか、全然勉強する気が起きてこない。だから時間だけは余裕ができてしまう。そうなってくると必然的にいよいよ将来どうするのかという現実を突きつけられ、「さて、どうやったら稼げるんだろうか…」ということを少ない知識の中で考える日々。で、田舎の野球少年が行き着いたのは「稼げる=社長、つまり社長を目指せばいいんだ!」という安易な結論。よし、じゃあ社長を目指して生きていくぞ!と自分に言い聞かせつつも、何も秀でた強みがない自分がどうせ社長なんかになれるわけないだろうな、と思っていたのが本音でした。高校生の時の自分は凄い人しか社長になれないって思っていたんですよね。ただ、それを自分で認めてしまうと絶対に気持ちが負けてしまうことは自分が一番良くわかっていましたので、そんなことは一切口にせず、自分なりにその道を模索してみようと考えていたことをよく覚えています。

私には高校時代の野球部の同期であり、これまで数えきれないほど一緒に飲んできた絶大なる信頼を寄せる友人が居ます。20年以上の時を経て今もなお交流が続いていて、プライベートだけでなく仕事でも取引先として付き合いが太い関係です。(ちなみに明日も飲む約束をしています。笑)
彼とは野球部引退後もよく一緒に図書館で受験勉強をしたり、とにかくしょっちゅうコミュニケーションを取っていたんですが、自分が起業した時にそんな彼から言われた印象的な言葉があります。

図書館で勉強中の合間に「直哉は将来何になりたいの?」って何気なく聞いたらさ、「おれ、社長になりたい」って即答したんだよね。その時の会話がとても衝撃的で良く覚えてる。そして本当に社長になったね。おめでとう。

当の本人は全くそんな会話をしたことを覚えていないんですが、おそらく、「どうせ無理だ」と思っている自分の気持ちを押し殺すかのように社長になりたいって口にしたんだと思うんですよね。
なんか自分らしいなと思ったのと、そんな言葉を覚えていてくれたことと、20年以上前の自分がふと目の前に現れた気がしたのとで、この言葉をもらったときに大きく込み上げるものがありました。
あの時の自分に「大丈夫、必ずなれるよ」って伝えてあげたい。

何者かになりたくて東京へ

さて、社長になれるかどうかは別として、いずれにせよこのタイミングで進路を決断しなければいけない。周りも続々と進路を定め、そこに向けて勉強やら何やらと準備を進めていく。だってまだ18歳ですよ?そんな早いタイミングで人生の重要な決断を迫られるなんて、あまりにも厳しすぎる。きっと同じ様な悩みに苦しんだ(苦しんでる)地方の高校生ってめちゃくちゃ多いんじゃないかなと思うんです。情報が少なすぎてそもそもの選択肢が浮かばないんですよ。ずっと野球やってきてたのでアルバイト経験すらないし。

そんな高3の夏、先生がクラスのみんなに向けて言った言葉。

「いいかお前ら、高校卒業したらみんな何者かにならなきゃいけない。社会とはそういうもんだ。腹括って進路決めろ。だけどまだ人生決められないってやつもいるな?そういうやつはとりあえず大学に行け。大学に行けばまだ学生でいられる。学生は何者にもならずに過ごす猶予を得ることができるから。」

この言葉に心底救われました。
そうだ、いま自分が見えている世界の中だけで将来を決めるなんて無理だ。いや、無理というより良い選択ができるわけがない。世の中には、いわきには無いまだ見ぬ世界がきっとたくさん溢れているはずだ。もっと多様な世界や価値観に触れることができれば、きっと自分の人生が開けるはず。よし、東京に出よう。そして多くの人に触れ、社会にでる決断を先延ばししよう。その方がきっと社長に近づけるはずだ。

決断したら行動が早いのが昔から変わらぬ自分の特徴。つまりせっかち。早速その夜に両親に時間をもらい東京の大学に進学したいという意思と、なぜそう考えたのかを自分の言葉で伝えました。その代わり東京に出してもらえれば必ず何者かになって還元すると約束をつけて。
結果、そんな自分の話に真剣に耳を傾けてくれ、二人とも力強く背中を押してくれました。

両親は共に高卒で、大学に出たこともなければ東京に出たこともありません。つまり自分の経験則が及ばない承認です。そしてこれまで以上にさらに経済的負担も掛かる。そんな中、私を信じ、迷いなく後押ししてくれたことはただただ感謝しかありません。本当にありがとう。

自分にとって家族とは、まだ何者でもない状態の自分に、一番最初に、誰よりも期待をかけてくれた投資家という感覚が強くあって、「家族孝行したい」というよりも「一番最初に恩を返したい対象」というニュアンスがしっくりきます。そしてそんな家族を、昔も今もずっと変わらずに尊敬し続けています。

恩返しへの焦り

だいぶ前置きが長くなってしまいました。というか長すぎる。ここまで書くのに結構時間掛かったけどまだ高校時代の話やんけ… 
でも自分の起業に一番影響が大きかったのが高校までの時間なのでどうかご勘弁を。ここからは一気に飛ばします。

さて、そんなこんなで無事東京に出ることができ、大学も無事に卒業でき、新卒でアパレル企業に就職をします。バーニーズニューヨークという、世界でも超一流のブランドをセレクトしているお店で販売員の仕事です。
もし社長になれる可能性があるのであれば、少なくとも自分の強みや得意な領域で勝負した方が良いなと考え、大好きだったファッションの世界に絞って就活をしていたのですが、その中でバーニーズを選んだ理由は商品力じゃなくて「提案力と人間力で勝負できる」と考えたからです。当時はハイブランド人気が異常なまでに高まっていて、物さえあれば「売れていく」ような状況でした。ありがたいことに当時某ハイブランドからも内定をいただき、そちらの方が給料も良かったのですが、「自分じゃなくても売れてしまうほど商品力が高い環境」と「誰から買うかがビジネスの肝になる環境」とどちらが自分が得たい力を身につけられるかと考えた時に、バーニーズは後者であると捉えてそちらに意思決定をしました。

バーニーズでの仕事は本当に楽しく、やりがいに溢れ、いまだに当時の夢を見たりするほど充実していました。ただ、本当に社長を目指すのであればこのままここに居続けても難しいだろうなとも感じる様になっていきます。端的に言うと「もっと稼がねば」「もっと世の中を知らねば」という2つの思いからです。そこで4年目の夏に転職という決断をします。

転職先に選んだのはリクルート(入社当時はリクルートエージェントという会社でした)。人材エージェントという仕事にキャリアチェンジしました。「採用」は全ての産業に関われる仕事であることと、完全実力主義の環境である点が決め手です。ここであればもっと稼ぎ、もっと世の中を知れる。そう考えての選択でした。
この選択は大成功で、この転職が起業に向けての大きな転機となったのは間違いありません。ここで人材エージェントという仕事に出会っていなければ、きっと今も起業できていなかっただろうなと思います。当時のおれ、ナイス選択。

そしてアパレル時代と比べると少し生活に余裕も出る様になり、ここでようやく家族を旅行に連れて行ってあげられるぐらいになりました。両親と妹を連れていった韓国の極寒旅行はいまでも良い思い出です。

そしてそんな最中、自分の人生にとってとても大きな出来事が起きます。
大好きだった祖母の死です。

祖母は祖父と共にいわきで長年床屋を営んでいました。今思えば、小さな頃から目の前で商売を目にしていたということも私の起業に影響しているのかもしれません。
勝ち気で、怒ると怖くて、だけどとても愛情深いばあちゃん。私が初孫だったということもあり小さいころからずっと可愛がってもらってましたし、私も俗に言うお婆ちゃんっ子。祖父亡き後も一人で営業を続けていて、いつ会っても元気。もちろんそんな祖母にも大きな恩義を感じて生きていましたし、当然恩返し最優先の相手です。
そんな祖母が突然、亡くなってしまった。

リクルートで仕事中に母から携帯に電話があり、何となく嫌な予感がしながら電話に出ると祖母の訃報を告げる内容でした。
亡くなったとされる当日もいつも通り仕事をしている姿が目撃されていて、お店が数日空いていないことを不審に思ったご近所の方で実家に電話をくれて祖母の家を訪ねてみると、布団で眠ったまま亡くなっていたようです。
つい最近も電話で話したばかりだったのに。あんなに元気だったのに。そしてあんなに愛情をかけてくれたのに。最後お別れも言えずにこの世から去ってしまった。

一頻り悲しみと向き合ったあとに浮かんだのが「恩返しが間に合わなかった」という後悔。一体自分は何のために東京に出てきたんだろうか。
時間は有限であるということをまざまざと感じさせられ、恩を返したい家族には1日でも早く返していかなければと考えるようになりました。

震災と無力な自分

そこから家族は大きな喪失感を抱えながらまた日常に戻っていきました。ただ、肉親を亡くした父は私以上にショックが大きく、しばらく元気のない状態が続いている様子。そんな父を気にかけながらも私はまだまだ東京で頑張らなければいけません。
地方からの上京組って、こういう時が本当に辛いですよね。家族が大変な時に寄り添ってあげられないという辛さ。

そんな状況の中、追い討ちをかける様に起きたのが東日本大震災でした。

あの日はリクルート本社の高層ビルで仕事をしていて、突然このままビルが折れてしまうんじゃないかというほどの強い揺れ。あの瞬間は本当に「このまま死ぬのかも」という考えが頭をよぎりました。
そして少し揺れが収まった頃に入った情報によると、どうやらいわきが大変なことになっていると。東京の比じゃないと。
一面ガラス張りのオフィスからは遠くに見える工場が爆発し燃え盛っている様子が見える。異常事態であることは東京にいても充分にわかるぐらいなのに、震源地に近い実家の家族はどうなってしまっているんだろうか。もしかしたらもう死んでしまったかもしれない。
翌日になってようやく家族と連絡がつき、みんなの無事が確認できたときは本当に全ての力が抜ける思いでした。

結局、震災によって家族全員の仕事がストップし、今後の生活の見通しが全く立たなくなってしまったことに加えて、原発の避難区域もいよいよいわきも対象になってきそうであるという状況を見て、家族全員を東京に呼ぶことを決断しました。

そこから両親二人はいわきのライフラインが落ち着くまでの約1ヶ月ほど、妹はその後1年ほど、東京で一緒に暮らすことに。
この時は起業するとかそんなのはもうどうでも良くなってしまい、ただ家族が無事に暮らしていけること。そこさえ担保できれば充分だなと考える様になっていました。そしてそれならこのまま今の仕事を続け、安定的に収入を得られることがベストなんじゃないかと。

それから1年。家族も全員いわきで仕事も見つかり、私も東京での日常が戻ってきました。
気付けば私も30歳になっていました。

そしてやがて状況が落ち着いてみると「自分の無力さ」だけが残りました。
自分の故郷が大変な状況なのに、今の自分では何も力になれない。
まだ何も恩返しできていないのに、もしかしたら家族を失っていたかもしれない。そしたら祖母の時と同じ、いやもっと後悔することになる。
結局この時の自分は少しばかり仕事ができる気になっていただけで、リクルートという看板の力を借りなければ何もできない人間なんだということを痛感させられます。
このままではダメだ。もっとちゃんと自分の力をつけて、大切な人や場所を大切にできるだけの自分にならなければ。1日でも早く。

戦う場所を変える

そこで私はリクルートを退職するという決断をします。会社の名前で仕事をするのではなく、自分の名前で仕事ができるようにならなければ、自分の実現したい未来は一生実現できないと考えたからです。
そして、両親の年齢も考えると、ここから先いつまで変わらず元気にいられるかどうかなんて、もはやわからないという危機感も背中を押しました。
そこで「35歳までに自分の看板で仕事ができる状態」と「時間と場所に縛られずに稼げる状態」を目指すことを決意します。

じゃあその状態を35歳までに実現するにはどうすれば良いか。振り絞って出した答えが「勝てる場所を選ぶ」ということでした。
そこで自身のキャリアを客観的に見た時に、「ファッション×人材エージェント」であればファッション業界の知識とリクルートで培ったビジネスの知見を活かすことができ、相対的にみて最もバリューを発揮できるのではないかと考えます。よし、思い切ってここで勝負を掛けるか。リクルートの時と比較して大きく月収を下げるという選択でしたが、成果さえあげられればきっと取り返せると腹を括りファッション業界のヘッドハンティング会社へ入社しました。

いざ踏み入れてみると、これまで私が経験してきた人材エージェントとは全く異なる世界で、今までとは全く異なるチャレンジの日々。ただ、厳しい環境ではあるものの着実に自分が求めているものがあるという確かな感触を得ます。

そして4年の時を経た2018年1月。個人事業主として独立をしました。私は35歳になっていました。

いわきへの想い

その後、40歳までには起業したいという目標を掲げ「自分がやりたいこと」ではなく「お客さんの力になれそうなこと」を中心に仕事を広げていきます。
もっと早い段階でキャリアを考えるきっかけを作ってあげたいと考えて専門学校でキャリア教育の講師を始めたり、もっと日常にキャリアを相談できる場を作りたいと考えスナックの経営を始めてみたり。
今となっては当たり前に存在していますが、コロナ前の段階からリモートワーク中心で仕事をするようになり、まさに目指していた「時間と場所に縛られずに稼げる状態」を手にします。そして、これによっていわきに帰省する機会も増えていくことになります。

自分にとっていわきってどういう場所なんだろうか。

東京−いわきを行き来している中でよく考えるようになりました。もちろん特別な場所であることは間違いないんですが、自分の故郷だから、という理由だけだとどうもしっくり来なかったんですよね。どうしてこんなに大切にしたいんだろうか。
そしてようやくしっくりくる答えが出せました。

自分の大切な人が生きてきた場所だから

これです。自分の郷土愛という以上に、自分に愛情を注いでくれた大切な人が大切に生きてきた場所を大切にしたい。この想いが自分をいわきに魅きつけ、そしてその場所に貢献したいと心から思える。

自分の中で大切にしたいことがより明確になり、そしてそれを実現するためにはどうすれば良いかを考えるようになります。
そうなると個人事業ではどうしても限界があると考えました。

「早く行きたければ一人で行け、遠くへ行きたければみんなで行け」

有名な諺です。そう、ここからはより遠くへ行きたい。
それが株式会社ALL IS NEWを設立した理由です。
2021年1月。39歳の冬でした。

そこから3年が経ち、今に至ります。
なりたかった社長にはなれたけど、まだまだ家族に恩返しができたとは思っていないですし、それに何より家族の定義も広がってきています。
いまでは実家の家族、妻、妻の家族、そしてALL IS NEWで働いてくれているみんな、全員「家族」です。こんな表現するとちょっと古臭い昭和の香りを持たれてしまうかもしれませんが、少なくとも自分はそういう気持ちでいます。まぁ、いまだに飲みにケーションも大好きだったりするからきっと古い人間なのかもしれませんね。とにかく、いざ社長になってみたものの、ようやくスタート地点に立つことができたぐらいの感覚でいます。

でも、こんな私でも、自分には無理だと思っていた私でも、本当に社長になることができました。
今となっては社長という肩書き自体はどうでも良いですし、社長だから稼げるってわけじゃないこともよくわかりましたし笑、シンプルに大切な人や場所を大切にできることを実現できれば良いなと思っています。
でもやっぱ昔の私には本当に社長になる自分は想像できなかったな。そこだけはちょっとだけ頑張れたかなって思ってます。

まずは自分を知ってもらおうと思って書いたnoteですが、こんなやつでも昔から思ってたことを色々遠回りしながらも実現できたよって、どこかの誰かにちょっとだけ勇気を与えられたら嬉しいなとも思ってます。だって想像以上にいっぱい書いちゃったから。欲張りすぎか。

今後はもう少しコンパクトに、自分が考えていることやALL IS NEWについて、定期的に発信していきたいと思いますのでぜひこれに懲りずこれからも読んでもらえたら大変大変ありがたいです。

それではまた。
最後までお読みいただきありがとうございました!

株式会社ALL IS NEW
代表取締役社長
吉田 直哉



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