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自信がつかないのは何かを成し遂げようとするから

読んでくださってありがとうございます。

自分は機能不全家族のもとで育ち
精神疾患(うつ病、DESNOSなど)で苦しみ
そこから回復した経験があります。

今回は自分の経験談をもとに
なぜいつまでも自信がつかないのか
そのヒントについて書きます。

自信をつけるプロセスを誤解している

自信がない人の大多数は
自信をつけることについて誤解しています。
それは何かを成し遂げることによって
得られるものだと思っているからです。

何かを成し遂げるということは
世の中で良いとされることに向かって
努力しようとすることを指します。

お金を稼げる男になったら
痩せて可愛くなれたら
頭が良い自分になれたら
人前で堂々と話せる自分になれたら
人に対して優しい人間になれたら
活動的な自分になれたら

もっと自分に自信が持てるのに…

自分もかつてはそうでした。
勉強がもっとできれば
もっと容姿がかっこよくなれば
スポーツがもっとできれば
誰にでも優しい人間になれたら
自分は自信を持てると思っていました。

満たされていない何かを
穴埋めするかのように努力しました。

しかし、自分はいつまでも満足せず
常にそうしていなければ
自分は世の中から認められないという
強迫的な観念に苛まれました。

成し遂げることで得られる自信は脆い

自信がない人は何かを成し遂げて
得られる「成果」を持つことが
自信につながると思っています。

しかし、この「成果」に
基づいた自信は脆いです。

なぜなら「成果」とは相対的なものだからです。
周りと比べて良いから
評価されるものになります。

成績を良くするのも
容姿を外見を磨くことも
お金を稼ぐことも
周りと比べて良いと思えるから
それでよいと思えるのです。

しかし、当然上には上がいるものです。
完璧を目指そうと思っても、
自分よりもいいと思える人は
探せばいくらでもいます。
そういう人と比べて自分は
まだダメだと思い込みます。

また、ここで得られた「成果」は
環境や年月にも左右されます。

仕事の「成果」で自分を保っている人で
環境が変わった例をあげます。

営業マンとして数字をあげていた人が
別部署に異動になり管理職になりました。
しかし、人の仕事をマネージメントすることが
苦手で部下から信頼されない。
そして自信を失ってしまう
なんてこともあるかと思います。

「成果」は年月で失われることもあります。
例えば、スポーツ。
人間はいつまでも若くいられれば
いいですが年を取ると老化します。
スポーツ選手がプロとしていられる寿命は
限られています。
サッカー選手で60代でプロの
第一線で活躍している人はいませんよね。

自分が好きな漫画の「幽遊白書」でも
似たようなエピソードがあります。

強さを追い求めるあまり
老いを恐れた戸愚呂に対して玄海が
「あんたも年をとれば、あたしも年をとる。
それでいいじゃないか。」
と言うシーンがあって自分は結構好きです。
ちなみに戸愚呂は年を取るのが嫌になり、
人間から妖怪になります。

すみません、少し脱線しました。

要するに「成果」で得られた自信は
環境に依存し「他人軸」で
自分を評価していることになります。
それは周りの状況に左右され
自分でコントロールできないこともあり
脆く儚いものです。

この「成果」で得られた自信を
「Doの自信」ということにします。

「Doの自信」「Beの自信」

では、ぶれない自信とは
どういったものでしょうか。

それは「今の自分のままでいいか」と
思えることだと自分は思います。

これを「Beの自信」ということにします。
俗にいう自己肯定感ってやつですね。

この「Beの自信」が土台にあって
「Doの自信」が上に積み重なることが
本当の自信です。

「Doの自信」
「~~ができる」「~~より優れている」
という感覚。
何か「成果」があがったとき
誰かに評価されたときに生まれる
環境や状況に左右されやすい

「Beの自信」
「今の自分でもいいや」
「自分なら何とかなるだろう」
という感覚。
「できるだけ~~したい」
という感覚なので基本的に折れない。

『「本当の自信」を手に入れる9つのステップ』から引用 水島広子著

「Beの自信」が土台にないとどうなるか

「Beの自信」は
「今のままの自分でもいいや」といった
自分を肯定的に捉えるものです。

しかし、この土台がない人は
今の自分はだめだ
誰からも受け入れられない
という恐れを持っています。

この状態で「Doの自信」を
つけようとするとどうなるでしょうか。

お金を稼げる男になったら
痩せて可愛くなれたら
頭が良い自分になれたら
人前で堂々と話せる自分になれたら
人に対して優しい人間になれたら
活動的な自分になれたら

Doの自信をつけようと思う動機
はこのようなものでしたね。

これはすべて今の現状に
満足していないことになります。

(今より)お金を稼げる男になったら
(今より)痩せて可愛くなれたら
(今より)頭が良い自分になれたら
(今より)人前で話せる自分になれたら
(今より)優しい人間になれたら
(今より)活動的な自分になれたら

「Beの自信」は
「今のままの自分でもいいや」
と思えることですが
「Doの自信」はそれを手に入れてしまうと
今の自分のままではだめだという
考えを強化してしまいます。

摂食障害はまさしくその代表例です。

今現状の自分に満足できず
自信を持つために痩せようと思います。

ダイエットを頑張った結果、
周りから痩せた自分に対して
「可愛くなったね」という
肯定的な評価をもらえます。
この肯定的な評価をもらえたことで
さらにダイエットに励みます。

しかし、
「Beの自信」の土台がない人にとっては
痩せたことによって肯定的な評価を
もらったという事実は裏を返すと
「痩せてない自分は周りから受け入れられない」
という思い込みを植え付けられます。

体重のコントロールは
自分でコントロールが効くものです。
これが非常に厄介です。
「今のままの自分でもいいや」ということに
向き合うことができなくなるからです。

そしてこの強迫的な思い込みから
抜け出すことが難しくなります。

体重が減って不健康そうに見えるので
家族は心配して無理やり食べさせようとします。
この食べ物を差し出されることに
摂食障害の人は強く反発します。

なぜなら今よりも太ったら
「自分は周りから受け入れられない」
という強い恐れがあるからです。

こうして心配してくれる家族に対しても
反発するようになります。
そして優しく接してくれる家族に対して
反発する自分に更に嫌悪感を持ちます。

一見、自信があるように見える
自己愛性パーソナリティ障害の人も
「Beの自信」の土台がない人です。

自分の失敗を絶対に認めようとしません。
それは自分は常に完ぺきで、
誰よりも優れていると信じていなければ、
自己を保つことができないからです。

自分自身の力で価値を感じることができず、
他者に評価され、持ちあげられることで
自己の価値を確かめようとして、
常に他者からの良い評価を求めます。

ですが、自分自身では、
そのような心理状態に自覚がありません。
自分は、他者から高評価を受けるのが当たり前、
特別で偉大な存在であると信じこんでいます。
信じこもうとしています。

「Beの自信」が持てないのはなぜか

「Beの自信」が持てなくなったのは
それはあなたのせいではありません。

恐らく幼少期の家庭環境や
周りの環境に影響されていると思います。

それは小さいころから
ありのままの自分は
受け入れてもらえないという体験を
繰り返してきたからです。

自分の例を話します。

自分の父親は上で書いた
自己愛性パーソナリティの
気質を持つ人でした。
自分の父親も実は
虐待的な家庭で育ってきた人です。

自分の父親は
幼い時に実の母を交通事故で亡くしています。
交通事故で母親を無くしてからは
兄弟別々の家庭で育ちました。
父親は実父(祖父)と継母(祖母)には
家庭内暴力を受けて育ち
物凄く貧乏だったようです。

父親は反骨精神で、死に物狂いで勉強し
この貧乏な生活から抜け出して
自立してやると必死だったそうです。
祖母には大学なんていかず、
自衛隊に行けと言われて育ちます。

しかし、自衛隊に行くのが嫌だった父親は
推薦で某有名私立大学に行き
奨学金で大学に行きました。
奨学金は成績優秀者で
返金はしなかったそうです。
そして、日本中誰でも名前を知っている
大企業に就職しました。

そんな父親に育てられた自分は
父親が今まで生き抜いてきた教訓を
植え付けられたのでした。

小学4年生になった時
「お前、中学受験しろ」
そう父親から言われました。

この頃から日能研という塾に通い、
平日は友達と遊ぶことが出来なくなりました。
休日は父親にマンツーマンで
勉強指導をされることになります。

次の塾の授業の予習と今までの復習、
それに加え国語、算数、社会、理科の
ドリルなど朝から夕方まで
付きっきりで教えられました。

通っていた塾の日能研では、
2週間に1回くらいのペースで
『カリキュラムテスト』がありました。

2週間で学んだ内容が出題され、
クラスの中で成績が丸わかりになるテスト。
各科目及び総合点数の成績上位3名が
毎回掲示板に載り、クラスの席順は前から
成績のトップ順に座るというものでした。

『5・3・1・2・4・6』のような順番で
最前列の真ん中の子が一番優秀とわかる仕組み。
自分は塾に入った時
上から2番目のクラスで、
このクラスの中で常に1番を取るように
父親から勉強指導されていました。

カリキュラムテストで1位が取れないと
「なんでお前は俺の息子なのに
勉強が出来ないんだ
そんなんじゃ厳しい世の中で
やっていけねえぞ」と罵られ
殴られたり蹴られたりしました。

母親に対しても
「お前がちゃんと勉強見てないから
こいつがいつまで経っても
出来るようにならないんだ」
と詰め寄ります。
そんな光景を見て
自分は罪悪感を募らせていきました。

自分はこういう家庭で育ってきたので
「ありのままの自分でいい」
とは到底思うことができず
何かを成し遂げることでしか
人から受け入れられないということを
強く植え付けられました。

「Beの自信」を持つためには

「Doの自信」を求める自分を肯定する

何度も言いますが
「Beの自信」が持てなくなったのは
それはあなたのせいではありません。
まずはこれを認めることが非常に大事です。

そして「Doの自信」を追い求めることに
なったことも否定する必要はないです。
それは自分を自分として保つために
必要なことだったのです。

自分が持っている恐れを認める

自信がない人にとって
「完璧」を目指さなくてもよいという考えは
非常に恐ろしいと思います。
「~~しなければ人から認められない」
という恐れを持っているからです。

自分は「人に対して優しくいなければ」
と思い込んでいました。

しかし、誰にでも優しい人というのは
優しいように見えて実は違います。

ただただ相手のニーズを優先し
自分の自己主張をせず
何でも引き受けてしまいます。
そして相手が答えてほしいことを
言ってしまいます。

これは本来であれば
相手が向き合うべきことを
自分が引き受けてしまう
ことにも繋がります。
それは相手が成長する機会を
自分が奪っているということにもなります。

これは本当の優しさなんですかね。
自分が優しくしないと
相手に受け入れられない
と思い込んでいるだけです。
これは相手のためを思って
「~~したい」という欲求ではなく
恐れに向き合っていない
自己保身からくる優しさです。

相手のためを思って
「No」を突きつけるのも
優しさの一つです。

「完璧」を目指すことを手放す

恐れを認めた後は
「完璧」を目指すことを
手放していきます。

「~~すべき」ではなく
「~~したほうがいい」
くらいのニュアンスに変えていくのです。

「~~お金を稼ぐべき」ではなく
「~~お金を稼げたほうがよい」
くらいに思っていたほうが楽です。

「~~すべき」という思考は
完璧に出来ている間は強いですが
出来なくなった途端脆くなります。

「~~ほうがいい」という思考は
たとえ完璧にできなくても
「今はうまくできなかっただけだ」
と自分を持ち直すことができます。

「Beの自信」は
「今のままの自分でもいいや」と
思えることと指しましたが
これは全く成長できないということ
とはまた違います。

「~~したい」という欲求のもとに
行動すればよいのです。

自分はこの記事を
書かなければいけないという
強迫観念に苛まれて
書いているわけではないです。

自分の知識の整理のために
アウトプットした方がいいから
書きたいと思って書いてます。
この位の心持ちのほうが気楽ですよね。

気楽な心持ちになることと
おざなりにすることはまた別物です。

もっと自信があればというアリ地獄から抜け出す

ここまで読んできた人なら
何となく掴めていると思いますが

何か行動を起こすために
「もっと自信があれば」と
自信をつけようとすることは逆効果です。
それは今の自分を否定して
「今の自分のままでいい」という
「Beの自信」から遠ざかる
ことにつながります。

「今のままの自分はこれでいい。
でも少しずつ頑張っていきたい。
今できることをこなしていこう。」
こんな姿勢でいいと思います。

自信がないことと不安を混同しない

新しい環境に向かう時
何か変化を起こそうとする時は
誰でも緊張するかと思います。

中学生から高校生になる
新しい職場に転職する
引きこもり生活から抜け出す
完璧主義を手放そうとする

新しい職場に行くことを例にあげましょう。
「新しい職場になじめるかどうか自信がない」
というのは自信がないということではなく
「未知」への恐れです。
それは「不安」という感情です。

職場の人たちは優しい人かな。
上司はパワハラしてこないかな。
遅くまで仕事しなくても帰れるかな。
仕事内容に自分はついていけるかな。
自分がその職場になじめるかな。

「未知」なものは安全かどうかわからないです。
不安を感じるのはむしろ当然なのです。

この不安と自信のなさを
混同しないようにしましょう。

自分を他人と同じように「多角的」に見る

自分に対して勉強ができないということで
強迫的に勉強している人は
他人もそうやって評価しているのでしょうか。
自分よりも成績が悪い人は
全員だめな人間なのでしょうか。

自分の見た目が太ってて
良くないと思っている人は
マツコ・デラックスを
自分よりも下に見るのでしょうか。

なかなかに差別主義者ですね。
多分そんなことはないですよね。
人間というのは色んな面を持つもので
全てが完璧な人間なんていません。

全てが完璧なように見える人は
隙がなさ過ぎて
人から取っつきにくく
それが逆に欠点になることも
あると思います。

自信がない人は
ある一つのことに執着して
自分はだめな人間だと思い込みます。

そうではなくて
自分が他人のことを見るように
自分のことも一面的に見るのではなく
多面的に見れるといいかと思います。

自分は絵を描くのは下手だけど
スポーツがそこそこできるとか。
歌うのは上手くないけど
カラオケに行くと楽しんでもらえる
ように振る舞うこともできるとか。

恐らく他人はあなたのことを
全てを否定的に見ていません。
もしそういう人と付き合ってるとしたら
その人からは離れたほうがいいです。

自分を否定的に見ているのは
他でもない“自分自身”なのです。

長くなりましたが
本当の自信を手に入れる
ヒントについて書きました。

「Beの自信」が土台にあって
「Doの自信」が積み重なることが
本当の自信だと思います。

ここまで読んでいただき
ありがとうございました。



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