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LGBTQだからってそれを表現しなくても、君は君だよ。

久々にこういう話題がはなしたくなったので。

初めに言っておくと、セクシャルマイノリティについての活動を行っている人たちを否定する意味は一切ありません。セクマイを公表して文章を書いている僕の文章も“活動”だと思うから。だけど今日は、積極的に活動、表現をしない人たちにスポットを当てて話したい。

  

なぜ僕がセクシャルマイノリティの話をするのか

まず簡単に、なぜ僕が自分のこと、LGBT当事者の暮らし(主にパートナーである嫁さんのこと)を書くのかと言うことをお話ししたい。

日々の楽しいことを残したいとか、そういうのももちろんあるんですが。書こうと思ったきっかけはちょっと違っています。

今僕は31歳。アラサーですね。一番自分自身の性に対して悩んでいた10代の頃、セクシャルマイノリティであること、同性愛者であることは今以上に茨の道でした。

「報われない」「幸せになれない」「祝福されない」「差別を受ける」

当時の僕はそんな印象を受けていました。同性愛者である事は烙印やレッテルのようだった。
だからこそそうである自分に余計に悩んで、苦しい思いをした。

でも、今当事者の僕はそれなりに幸せを掴めていて。もちろん法的に嫁さんと「夫婦」になりたいし、そういう意味では今以上の幸せを望んでいると言えます。

でも、ある程度は幸せなんです。
少ないなりに友人が、一部の上司と同僚、両親が僕の性やパートナーがいることを知っていて、普通に接してくれている。
(そうでない人がいることも、環境に恵まれていることも承知の上ですが、僕はこうなるまで10年以上ゆっくり築いてきました。これはまた別の記事で…)

セクシャルマイノリティ当事者で、幸せに暮らしている大人がいる「モデルケース」もあるよ、とセクシャリティに悩んでいる若い人に知ってもらえたらなと思っていて。
それで僕のことをnoteで書こうと思いました。これが前提。

 

 

発信する人が増えたからこそ感じる「マイノリティ」

ここ5、6年ほどでしょうか。本当にLGBTやセクシャルマイノリティを取り巻く環境がガラッと変わりました。

ニュースで取り上げられたり、条例が変わったり。
僕が10代で悩んでいたころでは本当に想像もできない程に変わった。
これらはずっと活動してこられた先輩方の活動のおかげです。これは事実。本当にありがたい。

これによって、それまで隠れなければいけなかった当事者の一部は、SNS等で発信を始めました。
僕もそうですね。

それぞれの考え方や現状。こうなってほしいといった要望。そして日常を。

それらを人の目に見えるところで文章にすることは、多かれ少なかれ「活動」であると、僕は考えています。

でも例え顔が見えないSNSでも、発信したくないと考える当事者もいます。
活動してくれた人たちによって、発信しなかった人たちも、多様性が認められていく過程で利益を得るでしょう。
この図式だけで考えると、なんだか活動していない当事者(多くはカムアウトをしていない当事者)が積極性に欠けるように感じてしまわないでしょうか。

マイノリティが発信していく中で、発信しない当事者は「マイノリティの中の更にマイノリティ」であるかのようになってしまいます。

活動している方が、数字だけで言うとマイノリティかもしれないのに。

 

 

「セクシャルをオープンにしないこと」も多様性のひとつ

そこで思うのは、オープンにしないで居ることも発信しないことも、活動しないことも絶対に悪とは思わないで欲しいということ。

「自分もなんかやった方がいいんだろうな」と思う方。
そりゃやらないよりは、やった方がいいかもしれません。
やってみて、自分の中の考え方や感じ方も良い変化があるかもしれない。

でもそれはあくまで「あなたが望んでやったことである」と言うのが前提です。

僕が発信しているのは、みんなに発信したりオープンになってほしいからじゃない。
オープンにしていない人も発信しない人も自分の性別に悩まない世の中、つまり「誰もがカミングアウトできる社会」ではなく、「カミングアウトしなくても自分の性で幸せになれる社会」になってほしいからなんです。

多様性の中にはセクシャルなどの奥に、こういうオープンでいるか、オープンであることを選ばないことも含まれると思います。

だって性別の数が多様なように、どうありたいかも多様なはずじゃないですか。
好きな性別で居たいのと同じように、それを選べることも多様性のひとつなんじゃないかなぁ。

 

 

発信しなくても表現しなくてもオープンでなくても君は君

僕の知っている知人の当事者には、オープンで活動している人、隠している人、当事者ではないけど「アライ」なんて言葉も知らない、理解のある実質アライの人がいます。

今はSNSなどでいろんな人がそれぞれの立場や視点で、当事者のこと、アライのことを発信しています。

だけどそれはみんな自分で望んで発信していることなので、もしそういう話題をあなたが発信していなくてもそれはそれでいいのだと思ってほしい。

当事者だから何か表現しなければ、活動したり活動に参加しなければならないわけではありません。

もしも君の心がその方向に動いたら、その時に文字や言葉に、行動すればいいだけの事。
先述のように、たくさんの人が色々な活動をしています。
心が動いた時はそれらの力に、ほんの少しだけでいいから力を貸してください。もしくは、あなたの考えるあなたなりの方法で。

そうでなくてもあなたはあなただ。

色々な立場と考え方が、性別の数と同じかそれ以上にあって。

あなたが当事者だと思えば、あなたは当事者だから。
それがオープンであるか、オープンではないか。
発信者であるか、そうでないかは全く別の話だ。

あなたはあなたで、あなたを引っくるめて多様性がもっと認められる社会になってほしいと僕は願う。

 

 

さいごに

活動すること、活動に参加すること。
行動すること、表現すること。
これらは全部素晴らしくて少なくとも僕は「いいね」と言いたい。

だけど色々な事情や立場や考え方、もしくはタイミングでそれが出来ない人も居て。
当事者だけど表現したくない、出来なかったりする人がいて。

SNSが広まって、半ばインフラに準ずるものに感じられる今だからこそ、そういう人は「なんでやらないの、と思われないか」と考えると思います。
というか、僕が実際に「あなた(僕)のように表現したいと、思っていない当事者もいる」と言われたんですけどね。

だからこういう文章を書こうと思いました。

これも僕なりの活動です。

活動とは、自分や誰かのためという目的があるはずです。

だからこれは、活動や表現をしない当事者のための文章。

セクシャルマイノリティがもっと認められる過程でも、誰一人取り残したくない。
それが表現の有無であってほしくない。

発信する当事者であるからこそ、僕はそう思います。

 

 

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