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話してくれてありがとう。あなたのひ孫娘より。【リライト】

18年前に亡くなった曾祖父のことが、大好きだった。

夏になると思い出す、曾祖父が経験した戦争と、僕と曾祖父…いや、「おおきいじいちゃん」の話をしたい。

 

田舎町の中でも、特に僕の家は田舎にあった。
実家は周囲を野山に囲まれ、半径500m以上、実家と親せきである隣家しかない。
裏の畑でトロンボーンの練習をしていても大丈夫なくらい周囲に本当に家がない。
両親は共働き、祖父母は日中田畑へ向かう。
僕は保育園に通うまでと、それ以降の放課後や休日の多くの時間を、おおきいじいちゃんと二人で過ごした。

ひ孫の上、一人っ子の内孫。それはそれは大切にかわいがってもらった。
躾に厳しく、特に箸と鉛筆の持ち方はおおきいじいちゃんに根気強く教えてもらった。
絵や文章を書くこと、食べることが大好きな僕にとって、箸と鉛筆がしっかりと使えるということは、祖父が僕の中に生き続けることだと思っている。

 

90年代の夏。テレビをつければ戦争を取り上げた番組を、NHKだけではなく民放でも今より多く放送していた。テレビっ子だった僕が興味を持つのはとても自然なことだった。
因みにオカルトに興味が出たのも幼少期~思春期のテレビの影響が大きい。その頃の夏のテレビは心霊・オカルト番組も大変豊富だった。夏になれば昼夜問わず怪談や心霊写真、除霊企画、未確認生物などが取り上げられていた。

「おおきいじいちゃん、せんそうってなに?」

「国と国とで、大きなケンカばしてたんだよ」

その時既に80代中頃〜後半であったおおきいじいちゃんは聡明で、ボケもせず毎日新聞に目を通し、NHKをよく見ていた。相撲が特に好きだった。
よく僕とチャンネル争いをし、よく負けてオカルト番組やアニメも一緒に見てくれた。テレビを見ていて疑問に思ったことを、こうして問いかけることも度々だ。

 

中でもよく覚えている、ある夏の日のこと。

庭に面した居間の障子は大きく開かれ、サッシの網戸からは子供の背丈よりも大きく育った庭のツツジをはじめとした青々とした緑と、抜けるような夏空が広がり、そこから風がゆっくりと吹き込んでいた。幼少期から嫌いなセミたちは、けたたましく声を上げ彼らが生きていることを必死で叫んでいる。

工場勤めの両親は仕事に出かけ、祖父母は田んぼか畑に出ていた。家にはおおきいじいちゃんと僕だけだ。

太陽は網戸越しの庭をコントラスト強く照らしていたけれど、電気をつけない室内は涼し気な暗さで、テレビと扇風機の音で満たされていた。

たしか、おおきいじいちゃんはおやつに畑で採れたトマトを切って食べていた。大ぶりのトマトは適当に輪切りにされ、砂糖がかけられている。僕の田舎でのスタンダードなおやつとしてのトマトの食べ方だ。

テレビではまた戦争体験のドキュメンタリーをやっている。

「食べるか?」

「いらない」

テレビに目をやりながら、日本での戦争の話をどこか遠い国での出来事のように、まだ小学中学年の僕は眺めていた。

「ねぇ、おおきいじいちゃんも戦争に行ったの?」

この問いは、この時が初めてだったと思う。

「行ったよ」

この時の表情があまり記憶にないのは、こちらを見て話してくれなかったからだと思う。
そう思う理由は、僕に話す時に老いて窪んだ目の奥にあった、優しい眼差しを覚えているから。だからきっとこちらを向いていなかったんじゃないかと思う。

「じいちゃんは、外(国外)さはあんまり行かなくてな。国の中で手伝いをしてたんだよ。」

テレビで見るドキュメンタリーの多くは原爆での被害や、沖縄戦、戦争の惨たらしさを淡々と語りかけてきた。もしくは再現ドラマを交えて。

テレビでも教科書でもない、戦争の話がそこにあった。

「沖縄?」

「いんや、」

はっきりとした地名は教えてもらったのかもしれないけれど残念ながら失念してしまった。おそらく本島ではあったと思う。

「軍医さんって、わかるか」

「うん。お医者さん。」

「その人の手伝いば、してな。小間使いみてぇなもんだな。秘密の手紙を運んだりしてな。」

「秘密の手紙。」

「見つかってはなんねんだ。」

「だれに?」

ひ孫娘は夢中で耳を傾けた。この時には、いつもの控えめな、微笑むような見慣れた表情が思い出される。

「それも言えね。だけっども、見つかってはなんね。忍者みてぇだろ。」

その後に続いたエピソードを聞くころには、テレビの音もましてや扇風機の音なんて耳に入ってこなかった。

「ある時、よそさその手紙ば持ってくことがあって―――

結構な雨が降ってた。真っ暗な山道を、急ぎ足で進んだ。足元も満足に見えなくて、急いでいるうちに足を滑らした。そん時に、この辺を打って、」

おおきいじいちゃんのしわくちゃな手がゆっくり、右の鎖骨当たりを指す。

「痛くて動けねぇんだ。でも手紙ば持ってく先はやっぱり医者様だから、いいやこのまま行っちゃあべって。堪えてそのまま行ったんだ。」

忍者みたい、と言った時の笑顔にはその時影が差していた。

「…だから、じいちゃんのここには、そん時の鉄の塊がある」

  

  

それから何年か経った、今から18年前の、12月初旬。今にも雪が振りそうな寒さの中でおおきいじいちゃんの葬儀と火葬が執り行われた。

晩年も聡明さは失われず、亡くなる1週間前に惚けはじめたくらいだった。

今生の別れになった、その日の朝も病院へと運ばれながら僕のことを「ちゃんと部活さ行ったかなぁ」と心配をしていたと聞いた。

実際僕は救急車でおおきいじいちゃんが運ばれた後、「大丈夫だから部活行ってきなさい」と母に送られて土曜日の半日だけの部活動に向かった。

最期まで僕の心配をしてくれたことが今でも嬉しい。

 

田舎の葬式は目まぐるしい。
祖母と母は弔問客の対応に追われていたし、祖父と父も二人ほどではないけど忙しそうにしていた。

僕はというと子供とはいえ中学1年の女の子がただ座っているのも気まずく思い、母のあとを付いて手伝っていた。

おおきいじいちゃんが事切れてから、暫く泣いた記憶がないのは、そうして僕なりに手伝って働くことで考えないようにしていたのかもしれない。

火葬場での仕出しやお茶出しを手伝っていると、火葬に時間がかかっているということが耳に入った。
雪が振りそうな寒さと、ドライアイスが多かったせいで遺体が固まってしまったらしい。

ずっと足が悪くて、こんな寒い日はこたつの定位置でお茶や米麹の甘酒を飲むのが好きな人だったから、「寒かったろうな」となんだか可哀相になった。

予定よりも長い時間をかけて焼かれた骨との対面。
91年生きた人の骨は、形を残している部分よりも、粉のようになってしまった部分のほうが随分と多いように思えた。

牛乳、嫌いだったもんなぁ…。

そう、妙に納得していると親戚のおじさんが訝しげな声を出した。

「おい、これなんだ?」

これ、と声で示されたものは円筒状の黒い小さな塊だった。
それは粉のようになった骨の中で小さいながらに存在感を放っている。

小声で憶測も飛び交わない不思議なそれを、僕は知っていた。

「おおきいじいちゃん、戦争中に怪我して、骨を繋ぐのに鉄が入ってるって言ってました。」

親族の中ではろくに話さない、内向的なひ孫の僕が口を開くと視線が集まるのを感じた。

「たぶん、それだと思います。」

寒い冬の日、僕の心はあの夏の日にいた。

「おじいちゃんが言ってたの?」

聞けば親族は、誰も黒い塊が埋め込まれた理由を知らなかったそうだ。

僕の家族も、怪我をした際のものとだけ知っていたようだけど、それが戦争によるものだとは知らなかったらしい。

「トキちゃん、どうしてそんなこと知ってるの?」

 

どうして僕にだけ話したのかは、わからない。

誰も知らなかった、おおきいじいちゃんの秘密。

秘密の手紙がなんなのかまでは教えてくれなかったけれど、奥さんも早くに亡くしていたから、誰かにこの秘密をぽろっと、話したくなったのかもしれない。

こんなちゃんと秘密を書いたら、怒るかな。

でもこんなに何年も何年も経った今でも、僕にだけ話してくれたことが嬉しいんだ。

ああでも、今はおおきいばあちゃんに聞いてもらってるから僕だけじゃないか。

 

話してくれてありがとう。嬉しかったよ。

今年は盆に線香あげに行けなかったら、今の世の中がもっと落ち着いたらゆっくり手を合わせにいくからね。

 

 

あなたのひ孫娘より。

 

 

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以前書いた記事をリライトしました。
元の記事は、下記です。

 

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