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「置かれた場所で咲け」という呪い

植木鉢に植えられた花があるとして、
土も痩せて、空気も悪くて、水も栄養も少ない場所で、咲かずに枯れた時、その花自体を責める人はどのくらいいるだろうか。

大抵の人は「環境が悪いから咲かなかったんだ」と言うだろう。

じゃあ、人間は?

「努力はきっと報われる」という甘い教育

現実と向き合うことも時には大事だ。

もし今取り組んでいることに向上心がないのなら、とっとと諦めて新しい道を進むべきだろう。「戦略的撤退!!」ってやつ。

例えば、一度入った部活を途中で辞めて他の部活に入り直すことは私の行っていた学校ではあまり良しとされていなかったし、実際しても1回までが多かったように思う。

しかも部活が「質より量!」の典型的な顧問の場合、毎日休まず部活に参加し一生懸命頑張っていることが素晴らしいとされる。「毎日よく頑張っているね」と、技術力ではなく、その直向きな姿勢が評価されたりする。

しかし結局試合に出られるのは「毎日頑張っている私」ではない。試合で大事なのは、これまでの練習量より技術の質なのだ。勝つためには当然だろう。

教育課程にありがちな、「努力はきっと報われるよ」という無責任な教えは、時に残酷な形で裏切りを見せる。「あんなに頑張ったのに報われなかった。。」と、どこにもぶつけられないモヤモヤが残ったまま、全てが一瞬で終わる。

若い学生に夢を見せるのは悪いことではないかもしれないが、結局最後は実力主義という残酷な世界が待っている。だったら最初から微塵の希望も持たせるんじゃねえ、と思ってしまう。

最近の漫画は主人公が雑魚スタートで、本人の努力で強くなってラスボスまで倒して英雄!!というお話が溢れているが、それに自分を重ねてはいけない。(※あのお話はフィクションです。実在の人物とは一切関係ありません。)

大人だったら、どこかのタイミングで「あなたにはこの実力がないからこのゴールは厳しいと思う。代わりにこっちはどうかな?」と選択肢を増やした上で、現実を伝えることも礼儀だろう。その上で次どうしたいかは、こちらで決めますので。現にこちらは放課後も土日も全て部活に捧げ、青春の何ページも犠牲にしているんだから。

人にはそれぞれ得意不得意があるが、不得意なことを平均並にするよりも得意なことを才能開花させる方がWinWinなのでは?

社会に出る前にそれぞれの「得意」を見つけるために学校でいろんな経験をするなら、3年間同じ部活とはなんと効率が悪い。アメリカみたいにシーズン毎にコロコロ変えさせてくれ。。

私がもう一度高校生に戻れるのなら、一瞬で部活を辞めるだろう。周りに何か思われるより、自分が枯れてしまう方がよろしくない。

自分に合った環境か、自分が咲ける環境かどうかなんて、そこに入ってみないとわからない。が、その先で「合わない」と悟ってしまった後の3年間は、ただの地獄でしかないのだ。

「石の上にも三年」の呪い

新卒で入社した会社が合わない場合もあるだろうが、日本ではなぜか1年目で職場を辞めることを躊躇する傾向がある。

1年目で辞める=諦めが早くて忍耐力のない人間 
というイメージが、いにしえの昭和から受け継がれている。

働くとは、まるでマラソン大会だ。
新卒が一斉に同じスタートラインから走り始める。気がつくと「一緒に走ろうね」と言っていた同期は、もうずいぶん先を走っている。自分に走ることは向いていないとわかるが、すぐに辞めるのは周りに根性なしと思われてしまう。

そして3年経過したところで「せっかくここまで走ったのに止めるのは勿体無い」という意地が出てくる。今からならまだ逆転もあり得る!!

途中で転んでいる人を助け、障害物を乗り越え、足が痛くても体力に限界がきても泣き言も言わず休まず走り続ける。

道の脇にいる観客の上司、先輩、お客様、、みんな私の頑張りを見ているか??おいおいなんで見てないんだよ〜〜なんて言いながら、昇進というゴールに向けて。

時が経ち10年、20年、、そろそろゴールが目の前に見えた時、そこに私のゴールを待っている人が誰もいないことに気がつく。先にゴールした同期たちと、マラソンに途中参戦した知らない誰かで、昇進の枠はもう埋まっているのだ。

日本の会社は西洋に比べ、「あなたに昇進のチャンスはない」と現実を見せるのがかなり遅く、平均で40代前半あたりだそうだ。

ずっとマラソンしかしてこなかった人ですら、40代にもなると他の会社で走らせてもらえるほど世界は甘くない。若さには勝てないのだ。

もしかしたら他の才能があったかもしれない、他の道もあったかもしれないのに。

劣悪な環境で咲ける人なんていない

ごく稀にどん底から這い上がった嘘のような実話を耳にする。それはもちろんその人の努力もあるだろうが、運や体力、心身の健康など、少なからず何かしらに恵まれていたのだろう。

アスファルトに咲く雑草でも、太陽の光や自然の雨水、生まれながらに持ち合わせた強い根など、いくつか条件が揃っている。置かれた環境が悪ければ、どんなに強い雑草だってなんだっていずれ死んでしまうだろう。

そして、
花によって育て方が違うように、人間一人ひとりには違った育て方があり、違った咲き方がある。誰もが雑草のように強い根を持っていないし、誰もが朝顔のようにたっぷりの水を喜ぶわけでもない。

一番大切なのは、
「自分はどう育てられたいか」
「自分はどう咲きたいか」
を自分がちゃんと理解していること。

そして、「こう咲きたいからこうしてくれ」と誰かを頼りにするんじゃなくて、その環境を自分で探して自分の好きな場所で生きること。

恋愛だってなんだってそう。
「なんで何回言ってるも変わってくれないの!?」じゃない。
「何回言っても変わってくれない相手と一緒にいる自分をなぜ許しているの???」だ。

人間は自分で生きる場所を選ぶことができる。

「自分には何も才能がない」んじゃない。
「自分の努力が足りない」んじゃない。
自分が咲ける環境に、自分の身を置いていないだけだ。



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