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死を知り、生を考える

死を意識すると生をさらに意識する。
表裏一体だ。

叔父が突然亡くなったと、連絡があった。
まだ60代だ。

叔父は勉強が好きで、知識が豊富だった。
仕事は塾講師。
一度、講義を受けさせてもらったが正直何を言っているのか理解が出来なかった。

レベルの高い人たちは、専門用語を沢山盛り込み会話とかをするのだろうと、学生の頃考えたものだった。

自分も大人になり、叔父と話す機会があった。
それでも世界感は変わらず、自分には想像もつかない言語を話していた。

性格はおっとりしていたが、
勉強の話となると目つきが変わっていたのを覚えている。

突然の死。
叔父はいったい何を残したのだろうか?

人は死んでしまうと今まで貯めていたものを全て手放すことになる。

財産、家族、地位。
人は裸で産まれ、裸で帰らなければならない。

では、この生とは何なのか?
生きた証を残すために、沢山の作品を残す。
沢山の人との付き合いをしていく。
死後、自分はその残したものをまた見ることはできるのだろうか。

そもそも生きているうちに何を残さないといけないのか?

生きるとは何なのか?

なんのために学び、知識を蓄え、財産を蓄え、家族をつくり、生きていくのか。

死んでしまえば何もない。

生きる意味はないのではないか。

叔父の勉強、知識は何だったのだろうか?

死や生のことをあつかった本は沢山出ている。

身近な人が亡くなり、今の自分、今までの人生、これからの人生にどんな意味をもたせるのか。

いまだに答えは出ない。
モヤモヤするも思いは尽きない。

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