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"shadow education(影の教育)"という言葉

こんにちは!先日、8月末に開催したオランダの学校視察ツアーが終了し、やっと日常生活に戻りました。おおよそ9月から新学期が始まるオランダで、娘は新学年として新年度を迎えることができました。

今回の視察で学んだことは数多くありました。私はオランダや時に北欧諸国を訪れて「教育」というものを立体的に知ろうとしていますが、その中で何度もキーワードとして出てくるのが「公共性」です。公共性の中には、とても多くのものが含まれますが「公教育」も公共性の一部だと言えます。

そして、今回の視察で知った言葉の1つに"shadow education"というものがありました。ある学校の先生が、「shadow educationが盛んな国は、その国に(教育的、経済的)格差が生まれる傾向がある」と言ったのです。

さて、この"shadow education"とは何なのでしょうか?

"shadow(影)"と名付けられる理由

"shadow"とは日本語で「影」を意味します。つまり、直訳すると"shadow education"とは「影の教育」です。「影」という言葉にどんなイメージを持つかは人それぞれかもしれませんが、一般的に「影」とは「黒い」とか「暗い」というイメージ、また「ついてくる」というイメージかもしれません。

そして、その言葉の通り「暗い方の付いてくる教育」というのが"shadow education"の意味です。つまり、「太陽の光を浴びない方の教育」であり「主体とするものを追いかける教育」を指しています。

"shadow education"と調べると、いくつかの質問とその回答がGoogleのサイトに出てきます。例えば、

Q: 影の教育理論とは何ですか?
A: 正式な学校教育時間を超えた私的な補習授業は、影の教育として広く知られています (例: Bray, 1999, 2009, Buchmann 他, 2010 , Stevenson と Baker、1992)。これは主流の教育が存在するからこそ存在するのです。

Q: なぜ「影の教育」と呼ばれるのでしょうか?
 A: 影の教育と呼ばれるのは、その内容の多くが学校教育の内容を模倣しているためです。つまり、学校のカリキュラムが変わると、影の教育も変わります。

もうおわかりの方もいらっしゃると思いますが、ここで言う"shadow education"とは、簡単に言うと、学校で習っている「学業的」な学びを学校外…つまり、放課後や夏休みなどの長期休暇期間中に提供している教育、またはその機関、つまり学習教室や塾、家庭教師のことを指しています。

学校教育が太陽だとしたら、それ以外の教育は影の教育であるという理解

学校外の教育を「影」と呼ぶところ、そう名付けたところに私はとても興味を持ちました。何故なら「本来は学校教育だけで十分である」という考えがそこに垣間見えるからです。そして、あくまで「影」は主体となるものを追いかけているものに過ぎません。

そして、オランダの先生の言葉に戻ります。

「…オランダはヨーロッパ諸国の中でも、整った国で、豊かな方だと思う。別の話として、shadow education(影の教育)が盛んな国は、その国に(教育的、経済的)格差が生まれる傾向がある。そして、僕が言いたいのはオランダでもそういった教育が少しずつ生まれつつあることを政府や研究者、そして教育者全体が考え直さないといけないということだ。何故なら、この国は格差を嫌う国のはずだから。私たちは経済格差が教育格差を生み、それがまた経済格差に戻っていく流れにより早く終止符を打たなければいけないんだよ。裕福な世帯に生まれた子だけが特別な教育を望み、それを叶えられて、そうではない子どもたちが学校教育"だけ"しか受けられない…その考え方や仕組み自体をもう一度問わなければいけない時に差し掛かっている」

北欧を含め、ヨーロッパ諸国の中でも格差が少ない国は、比較的人々の幸福度が高く、それは子どもたちの幸福度にも繋がっているように見えます。そして、おおよそ、その国々における公教育は充実していることが多いのです。そしてそれは広い意味での「公共性」という言葉にもつながってきます。

格差を日常的に目にすると「あそこには入らないようにしないと」という気持ちが働きやすくなる?

南アフリカの知的労働者層からオランダに移住してきた友人家族がいます。南アフリカと聞けば、ひょっとすると「国全体」が貧しいイメージを持つ人たちもいるかもしれませんが、実は違います。ロイター通信の記事によると、世界で最も経済格差の大きい国の1つである南アフリカは、世界銀行の2018年のデータによれば、国内資産の71%が上位10%の世帯に集中してるそうです。そしてその上位10%に含まれていたであろう彼らの話によると、南アフリカで裕福な暮らしをしている人々の暮らしは、そうではない人たちとの暮らしと断絶されているそうです。つまり、住んでいるエリアが全く違うということ。

しかし、いわゆる富裕層が暮らすエリアに、そうではない層の人たちが金銭略奪を目論んで来ることを恐れて暮らす日々でもあると言っていました。「車がないと移動なんて無理」「夜は出歩かないのが当然」「車に乗り込む時でさえ緊張感が伴わないとは言えない」という言葉が聞こえてきます。

「この国では当たり前なんだろうけど、オランダに来て子どもが1人で自転車に乗れることに感動を覚えたよ。近くのスーパーなら1人で買い物をお願いすることもできる。私たちにとってこれは当たり前の暮らしではなかったからね」

そして、彼らは「格差が大きい国」でとりわけ学校における学業成績は高く維持することを当たり前としてきたと言います。何故なら、そうでなければ「あの人たちの暮らし」へと近づいてしまうからです。そして同時に「この暮らし」を維持できないことへの不安も募ってしまうと言っていました。「格差がある土地の暮らしは精神的に楽とは言えない」彼らはそう言ったのでした。

教育格差と経済格差のループを止められるか?

そして、今のオランダも例外ではありません。いわゆる、学校外の時間に(学校での学びにプラスして)学習補習をするサービスが広がっています。そして、私がこれまで話をした教職員はそのサービスを良く思っていません。一方で、オランダのアムステルダム自由大学では"shadow education(影の教育)"についての調査・研究を進める中でこう述べています。

オランダ統計局によると、影の教育に対する家計支出は過去25年間で約3億ユーロ増加しています。影の教育は、このように教育界と生徒の学校生活においてますます確固とした目立つ地位を獲得しています。これはさまざまな疑問を引き起こします。多くの人々は、親がこの追加教育を(金銭的な理由から)子どもに提供できない場合、子どもが遅れをとることを心配しています。しかし、人々はまた、影の教育が生徒にとって意図的および意図的でない機能を果たすのか疑問に思っています。そして、影の教育(補習的な教育)、学校、家庭は互いにどのように関係しているのでしょうか。

記事では日本と韓国の教育競争の研究にも触れています。

ヤンセン氏は、特に中等教育の上級学年(高校生)の生徒の間で、親の教育レベルと影の教育(補習教育)の利用の間に正の相関関係があることを発見した。「国際的な研究から、有料補習教育の増加は親の収入だけで説明できるものではなく、教育競争の激化という文脈で解釈することもできることが分かっています。日本と韓国の研究でも示されているように、親は子供たちに良い見通しを与えたいと考えているのかもしれません。それは主に、その教育競争の中で機会を公平に分配することに関することです」とヤンセン氏は言う。

生徒自身は補習教育から何を得て、その結果をどのように体験するのでしょうか。また、影の教育(補習教育)を学校や家庭との関係でどのように見ているのでしょうか。これらの質問に答えるために、ヤンセンは中等教育の生徒に話を聞きました。生徒は補習教育に参加することで、学校の勉強の計画が上手になったと感じています。また、質問をすることが進歩することに役立つと、講師や家庭教師から学んだため、授業中にもっと質問する勇気が持てたことも示しています。生徒にとって、影の教育(補習教育)は学校や家庭の雰囲気から切り離され、勉強に平穏をもたらし、親や教師が常に提供できるわけではないサポートと背中を押してくれる場所になっています。「学校は、影の教育(補習教育)がとっていると思われる明確な立場に対して関係性を模索しているようです」とヤンセンは言います。

個人的に、塾が生徒に対して「学校での振る舞い」にポジティブな影響を及ぼしている…というのは、ちょっと日本との文化の違いがあるように感じます。中等教育以降において「勉強がよりわかるようになること」の目的が日本ではわかりやすく「受験」であることが多いのに対して、オランダではそのような文化がありません。そもそも「何故学ぶのか」という前提が違うような気もします。それが、ヤンセン氏が言うところの「教育競争の激化」に関連する違いなのかもしれません。

教育の公共性を確保する
ヤンセン氏は、公的機関の監督を受けない民間部門に公的任務が割り当てられるリスクについて警告している。「公的資金による教育制度における生徒の発達は、学校外での追加指導に保護者がどれだけ投資できるか、または投資する意思があるかに左右されるべきではない」とヤンセン氏は言う。「これは依然として重要な注目点であり、どうすれば良質でアクセスしやすい教育を保証できるかという問題を提起している」

と、彼の結論は簡単に言うと「家庭の収入に応じて、学校以外の追加教育を受けられるかどうかという事態は問題である」ということでした。もちろんこれはヤンセン氏の意見ではありますが、私が知るところの教職員は概ね彼の意見と一致しています。

これは個人的な意見、推察ではありますが、オランダは将来的にこれらのサービスに梃入れをすると思います。数を制限したり、かたちを変えさせたり…きっと「公教育」というものに(もう一度)適切な価値を置く社会へと舵取りをするのではないかと予想しています。

「我が子だけは…」という想い

「愛する我が子に最高の教育を、環境を」そう思うのは自然なことかもしれません。しかし、そう思う背景、保護者の本音は何でしょうか?

「我が子には勝ち残る大人になってほしい」
「十分にお金を稼ぎ、裕福な暮らしをしてほしい」
「今ある自分たちの生活水準が最低限あってほしい」
「今の暮らしがしんどいので、こんな思いをして欲しくない」

色んな思いがあるのかもしれません。そしてそれはどこか「懐疑的」な感情や思考を根源としていると感じるのは私だけでしょうか?何故、我が子が生まれてきたあの日のように「生きてくれているだけで十分」だと思えないのか。それは「公共性」への懐疑心なのではないかと思うのです。

私たちはそのような「懐疑心」は「誰か」によってもたらされていると感じがちですが、実はそれぞれの人の心の中に住んでいるもので、自分から取っ払えるものなのではないか…と最近は思っています。

では、どうやって?
それについてはまた別の記事で触れてみたいと思います!

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三島菜央<🇳🇱オランダ在住/元高等学校教諭>
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