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血の通った言葉の圧倒的な説得力には正直勝てない

私の周りには音楽を作る人、音楽の情報を発信する人、ひたすら音楽が好きな人が多い。

ひたすら音楽が好きな人はもちろん知識が豊富で、好きなアーティストや作品について熱く語っているのを聞いていると、職業柄なのか、「ちゃんと文字にしたらいいのに」と思うので、そう伝えます。
すると「いや、書くのは苦手だから」と、大体の人が言う。

これは本当にもったいないなぁと。
まぁ書きたくない人に無理に書かせる必要はないのですが、超ぶっちゃけてしまうと、取り立てて愛があるわけではないorそんなに知識のない人が体良くまとめた言葉より、あなたの愛にまみれたブサイクな言葉のほうがどんなに意味があるだろうと、私は思うのです。

今回は、そんなことについて書いてみます。

編集者の視点が入ることが「伝える」妨げになる?

プロのライターさんではない方の書いた原稿を校正することはよくあるのですが、その方は大体の場合、何かしらのジャンルにおけるプロフェッショナルで、対象にまつわる知識や、対象への思い入れは私の比ではありません

なぜその方にライターが話を聞いて原稿に落とすのではなく、あえて書いてもらうことを選んだのか、その理由は2つあります。

1. 一定水準の文章力がある

ひとつは、その方のブログなどを読んだ上で、一定の水準の文章力があることを感じたため。
これが一番大きいです。一定の水準…というのは私の感覚でしかないのですが、文章力がそれなりにある人は、わりと過不足なく自分の思いを文字にすることができるので、自分が編集を加えればしっかりした原稿に仕上げられだろうと判断した…ということです。

2. 自分の言葉で熱を伝えられる

もうひとつは、その方の内にある熱をしっかり文章に込められると感じたため。
これも具体的に言葉にするのが難しいのですが、しっかりテーマ設定をこちら側がすれば、インタビューアーの手を借りなくても、説明的な部分に加えて、その方の意見や思いをイイ感じに乗せてくれるであろうと判断した…ということです。
これは文章力とセットですかね。

こうして、文章のプロではない方に書いていただき、それを記事化すること。それ自体は何の問題もないのです。私の気がかりは、その後に訪れます。

いざ原稿があがってきて、私の編集のターンになると、やはり多かれ少なかれ校正をするのですが――さて、私はどこまで直すべきなんだろうということ。

もちろん、校正するにあたって、まったく別の文章にするわけではありませんが、
「この表現はこっちのほうがいいのでは?」
「文章構成をちょっと変えましょうか」
「ここはちょっとクドいかもしれないので削っちゃいましょう」
など、それはそれは時間をかけて、ああだこうだするわけです。校正にかかる時間は、通常の何倍にもなります。

そういったプロセスを経た原稿は、単純に読みやすい=体良くまとまったプロっぽい仕上がり…にはなるし、書いてくれた方に見ていただくと、「読みやすくなりましたね、ありがとう」と言ってくださったりもする。

でも、それは本当に良いことだったのか。私が手を入れたことによって、読み手の心にもたらす何かを阻害してしまっているのではないか…
仕事がWebメディア中心になって、数字として記事への反応が見えやすくなると、余計その思いが重くのしかかるのです。

ヘタクソだけど心を掻きむしられたライブレポート

こうした、いまだに答えが見つからない葛藤を抱えるに至ったのには、ひとつのきっかけがあります。

昔話になりますが、かつてよく読んでいた音楽誌(なんだったかなー)には、ディスクレビューやライブレポートなど、読者からの寄稿文が毎号巻末に掲載されていました。大体の原稿は文章もプロ並みで、いかにも音楽誌っぽいものが載っている印象だったのですが、とある号に、かなり異質なライブレポートがあったのです。

確か13歳か14歳の男の子による、Limp Bizkitというミクスチャーバンド(懐かしい)の来日公演のレポート。私はまだ編集の仕事などしていない、ただの学生でしたが、その文章が確実にイケていないことはわかりました

でも、読み進める目が止まらない。それだけで見開きを使っていたので、おそらく4000字は下らない文字量はあったはずですが、止まらない。
私の頭の中ではそのときのステージが見えていて、そこでどんなパフォーマンスが繰り広げられ、書き手の男の子がどういう気持ちでそれを見つめ、どれだけ感激したのかが、ウワーッと降り注いできて止まらないのです。

リンプ最高すぎる!ワーン(((p(≧□≦)q)))泣

と、気持ちが完全シンクロ。どうでもいいのですが、当時のミクスチャーならLimp BizkitよりLinkin Park派だった私も、「なんかリンプ好きかも」となってしまったほどです。
なにはともあれ、このとき初めて人の心を動かす文章が、必ずしも上手い文章とは限らない、圧倒的に血の通った言葉の前に、我々はひれ伏すしかない(大袈裟)ということを悟りました。

当時、その音楽誌の編集部でどれくらい原稿に手を入れていたのか、もしくはまったく手を入れていないのか、わからないのですが、文章力云々を超えた熱量があったからこそ掲載が決定したのは間違いないでしょう。

日々文章にふれる仕事をするようになって久しい今、その記事を読んでどう感じるかは想像がつきません。ただ、今に至るまで、そのライブレポート以上にヤラれたものは読んでないです。あの掲載誌、とっておけば良かった…。

文章力より「伝えたい気持ち」のほうが大切

なまじそんな経験があるため、やっぱり自分のやり方はちょっと違うのかもしれない…と不安になってきた私。

「どれだけロジカルで頭の良い人が考えたプランも、特定の世界の特定のジャンルに日々ふれている人の感覚には勝てない」

とある音楽プロデューサーの方が最近Facebookに投稿されていたことですが、まさにそういうことじゃないかと。いくら見た目が良くても、そこに「思い入れ」がなければ、血の通ったもの、人の心を動かすものにはならないのです。

話を戻すと、私は編集者として、書き手のマインドに密接した原稿がやってきた場合、言うなれば「何も知らない」自分の校正の仕方ひとつで、伝わるものも伝わらなくなる可能性がある、ということを肝に銘じなければと思います。

もちろん「塩梅」というものもあるため、編集者がいる以上はあがってきたものをそのまま出せばいいわけではないのですが、校正の「最低限」をどこに設定するかの見極めは慎重にせねばな…と。
しかし、校正を始めると「うぅ、直したいー!」って気持ちと格闘することになるのですが。編集者の性ですね。

ただ、どれくらいのクォリティーの原稿に仕立てるかは、掲載するメディアにもよりますので、これまた正解はありません。
あくまでも、きちんとした文章じゃなくても伝わるものは伝わるよということだけ、お納めください。

特にnoteのようなプラットフォームなら、文章が下手だからどうのこうのなんて気にせず書いてしまえばいいと、個人的には思います。何よりも「これを誰かに伝えたい!」という気持ちが大切ですね。

しかし最後にひとつ、履き違えてほしくないポイントをお伝えすると、職業を「ライター」とされている方には、大いに文章力を求めたいです。一緒にお仕事をさせてもらうなら特に。これ本当。
ここで私が「いいからいいから、とりあえず書いちゃお!」と呼びかけたいのは、仕事として書くわけではないことが前提です。

てな感じで、今回は以上です!

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