大統領選を通して思うこと(その二)ケン・ウイルバー、思想の二層構造
二十一世紀のアメリカを代表とする思想家、ケン・ウイルバー氏によると、アメリカの思想は、下の渦巻きのようなイメージに見られるように、下から上へと推移してきています。一つ一つの色には違った思想が代表されます。
Ken Wilber: The Intellectual Dark Web, an Integral Conversation? の中で、彼が強調するのは、特にAmber(琥珀)ー> Orange(橙) ー> Green(緑)への推移、そしてTeal(ティール)への移行です。新しい段階が古い段階に取って代わるのではなく、国や地域によって、これらの段階が共存しています。このビデオで彼の話を聞いて目からウロコでした。初めて、私が日常肌で感じていた自由や二極化にまつわる疑問が解けたのです。
少し情報が入り組んでいるのですが、以下、ざっとまとめてシェアしたいと思います。
1960年代以前~
琥珀 (民族中心主義)ー 伝統的、慣習、権威主義、コントロール,
トライバリズム。(人種差別、性差別的な傾向を含む)、従来の右派、共和党。
橙 (モダンー古典的自由主義)ー 科学的、リベラル、ユニバーサル、合理的、機会を得る自由、普遍的な個人の自由、権利。従来の左派、民主党。
1960年代以降~
緑 (ポストモダン、平等主義)ー 多文化的、複数人種的、相対主義、平等主義的ー>平等な結果、グループの権利、グループアイデンティティ、社会的正義、公正を個人の権利よりも優先。アカデミアに顕著に流れていく。
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従来、民主党は、橙のリベラリズム、共和党は、琥珀の民族中心主義であると見做されてきました。ところが、1960年代のポストモダンの時代に入って、「平等主義」に固執するグループに反する動きが出てきて、「平等主義」の彼らが謳っているのは、私達の知っている自由平等とはかけ離れていると、声をあげる人達が出てきました。そこで、民主党と共和党の中で、以下のような分割が起こってきます。
民主党の分割 ー 新しい民主党(超左派)(緑)と 従来の民主党 (橙)
共和党の分割 ー 新しい共和党(超右派)(橙)と 従来の共和党(琥珀)
そしてすなわち、
(緑 ポストモダン、平等主義)が、新しい民主党(超左派)
(橙 モダンー古典的自由主義)が、新しい共和党(超右派)と 従来の民主党
(琥珀 民族中心主義)が、従来の共和党
となります。
ここで興味深いのは、新しい共和党と従来の民主党の両方が、橙の古典的自由主義を支持している点です。古典的自由主義は、我々が知っている、いわゆる「普遍的な個人の自由や権利」を強調するリベラリズムです。しかし、同時に、従来の共和党は民族中心主義(白人至上主義にもなりうる)を支持し、新しい民主党は、社会的正義、公正を個人の権利よりも優先するポストモダンの平等主義を支持しています。
緑、ポストモダンに関してウィルバー氏は、「平等主義を掲げ、市民権運動や環境改善などを導入した面はよかったのだが、徐々に平等主義が極端にラディカルな絶対主義になっていき、平等な結果を強調するあまり、変革が起こってきた」と言います。ポストモダンに見られる思想は、「皆それぞれの見方をして、全てが正しい。しかしその基準はただ一つで、集団の信条に反するものは差別し、裁く」究極のトライバリズム(琥珀)とも言えるもので、緑から琥珀へと退行する「退行左派」が生まれてきたと言うことです。60年代から既に緑の中で起き始めていた分割、内部での葛藤を通して、ポストモダニズムはニヒリズムとナルシシズムへと進んでいきます。
ミレニアムに入り、一番下のマジェンタから緑までの第一段階が、ティールの第二段階に統合 (integrate)されていく動きが展開して行きます。ティールは、統合主義、多様性や選択制を保つ中、何をも排他せずに統合する動きです。「ホーリスティック」や、「インテグラル」と言う言葉がしきりに聞かれるようになり、スピリチュアル、マインドフルネスなども頻繁に囁かれるようになってきます。
しかし、ティール(統合主義)に見られる、排他せずに統合する動きは、現実化するのが大変難しいものです。ネットの広がりにより、「対極化」がより進んだことも問題点の一つです。2000年代半ばからグローバリズムを台頭するツールとして広がったネットでのコミュニケーションは、今まで繋がれなかった人とも遠く広く繋がることを可能にし、統合や団結、統一化をサポートするかの面もありました。しかし、顔が見えないためネット上での言動はエスカレートしやすく、違う意見の人々の間での対立を深めたともいえるでしょう。ジェンダーや階級を含む対極化の中でも、政治思想の対極化が進み、以前は、「意見が違うことを受け入れ、その人の人間性までをジャッジしない」だったのが、急速に「自分と相いれない政治的意見を持つものを排他する」と言う極端な反応の仕方に変わって行きました。
確かに「自分と意見が違う人を恐れ、近づかないようにして、同じ意見の人たちばかりで集まる」傾向は、1990年代以降、超スピードで進んできているようです。私が大学に勤めていた15年間の間に新しい教員を雇う場に立ち会うことが何度もありましたが、その時驚いたのは、現在働いている教員全てとうまくやっていけるかどうかが、大きな決め手となっていたことです。長年同じ釜の飯を食べる仲になるのですから「合う」かどうかが重要なのはわかるのですが、これでは同じような考え方の人達ばかりが集まってしまうのも無理はありません。
「Agree to Disagree」は、意見が違う人がいることを受け入れるスタンスで、アメリカの美徳とされてきましたが、それさえも今ではあまり聞かれなくなりました。そして、この'politically correct'な言葉が出てくる以前は、意見が違っていたらその人のところへ訪ねて行って、「なぜそういう意見なのか」を聞き、健全な議論をすることでお互いを理解しあうことが可能だったのです。ディベートは、相手を打ちまかすと言うよりも、反対意見を聞き、その視点を理解する意図で始められたのでしょう。
もう一つの問題は、第二段階のティールで生まれてくる精神の「覚醒」に、思想の「成長」が伴っていかないと言うことです。精神性が重んじられ、「全ては一つである」と言う統合的な見方が進んできたにも拘らず、「覚醒した体験」を解釈する思想が、古い段階のものだからだといいます。例えば民族主義をキープしながら覚醒し、全ては一つと、統合を謳(うた)いながら人に害を与えたり、何かを信じる度合いがあまりにもカルト化し、精神的には覚醒しながら独裁制に走る可能性もある、それは、思想が成長していないからだということです。
ここまでウィルバー氏の見解を追ってきて思うのは、個人と集団の関係性の複雑さです。個人の自由と権利を尊重しながら、異なる意見の人達と一緒に社会で生きていく。そして、その社会という大きな集団をリードしていく政府の存在。自分という個人を保ちながら、もっとダイナミックな共存形態に向かうのは可能なのかなど、将来に向けての課題はつきません。
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