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浦島語り#01 蒼い糸の行方


はじめに。「浦島」という名の恋物語。

 なぜ帰った、なぜ託した、なぜ開いた、なぜ別れた。どれか一つでも階段が抜けていれば、結末は変わっていただろうか――。昔話としてよく知られる浦島は、かつて、人間の男と龍宮の女との恋物語だった。そこには別離以外の結末はなかったのだろうか……。

 浦島伝承を男女の物語としてとらえ直し、その関係のほころびについて、また、いっとき民衆の願いを反映して語られたとされる幸せな結末について書き散らしたエッセイです。

昔々の白浜で 禁忌の箱が開きました。

音声で楽しみたい方はこちらからどうぞ。

昔々の白浜で 禁忌の箱が開(あ)きました
若かりし膚(はだ)も皺みぬ 黒かりし髪も白けぬ

それから彼らはどうしただろう。

 国道九号線に車を走らせる。ふと横に目を向けると、宍道湖が広がっていた。薄雲で覆われた空との境目ははっきりしない。透明感とか真っ青なんていう表現とはほど遠い濁った色。灰色をずっと濃くしたら、黒ではなくてこんな色になるのかもしれない、なんて、途方もないことを考えながら水面に視線を滑らせた。穏やかな水の上、ところどころ小さな波が立っており、そこだけは他の部分より茶の強い色をしている。どういうわけか、そんな茶色が何カ所かに散らばって、意味ありげに揺らめいていた。あの下には何が眠っているのだろう。

 先日松竹の歌舞伎を見た。最初の曲は浦島だ。若々しく美しい浦島青年は父母を慕うあまり竜宮城から帰ってくる。しかしそこに知った者の姿はなかった。時間が、彼の周辺にあったはずの全てを連れ去ってしまったのだ。途方に暮れた青年は愛しい人を思い出し、玉手箱のふたに手をかけては、いや、ならぬ、大切な約束が。開けようとしては、いや約束が。葛藤の末、とうとう箱を開けてしまえば、真っ白な煙が立ち上り、あっという間に彼の姿も真っ白け。腰は折れ、首も縮んだよう。曲がった両手で宙をかき、舞台をわなわな右往左往する姿は、同じ役者が演じているとは思えないほどに完璧な老人だった。巧みであり、それゆえに切なさを誘う。

 そうか。やはり彼らは別れてしまうのか。

 もちろん、国民的昔話・浦島太郎のストーリーを知らなかったわけではない。それでも私は期待していた。二人に幸せな結末が来ることを。
 歌舞伎についてはほとんど知らない。謡曲についてはちょっとかじった。だから、「歌舞伎には謡曲の翻案作品がある」と聞いた私は、偏った知識に突き動かされた。この歌舞伎「浦島」は、謡曲「浦島」を翻案したものかも、なんて、淡い期待を抱いていた。

浦島と乙姫―夫婦になったひとつの時代―

 かつて、ハッピーエンドの浦島伝説が存在した。室町時代くらいに生まれたと言われる御伽草子には、浦島と乙姫が夫婦として幸せになった話が残されている。玉手箱を開け年老いた浦島は、そののち鶴となって虚空へと飛び去っていく。それから亀であった乙姫とともに夫婦(めおと)の神となり、今に至るまでまつられているというのである。もともと資質がある人間がなるべくして神になったとする、当時の信仰に裏打ちされた展開。姫と回した時計がもう一度動き出し、二人の未来が重なった。
 別離を乗り越え、永遠を手にした浦島と乙姫。ああ、なんて救いのある結末だろう。
 この浦島伝説を下敷きにした謡曲があった。大学で謡曲を学び能楽堂でアルバイトもしていた私だったが、その曲の存在を知ったのはキャンパスライフも折り返し地点にさしかかった頃。それもそのはず、謡曲「浦島」は百年以上前に廃されていたのだ。明神となった浦島が勅使に不死の薬を授けるストーリー。それはくだんの浦島伝説が生まれた時代のさらにあと、浦島が明神として広く知られるようになった世界を描いたものだった。今残るのは詞章のみ。繰り返し読んではため息をつく。孤独から、老いから救われた浦島をこの目で見たい。乙姫と永遠の幸せを手にした浦島が見たい。このままの結末は悲しすぎる。たった一度の過ちのため、全てに去られて失意にくれる、心優しき浜辺の青年。
 つまり私は、幸せになった浦島青年を追って歌舞伎鑑賞を思い立ったのだった。それだけに別離のまま引かれた幕には寂しさを覚えた。とはいえ舞台は大衆のものであるほど“なまもの”だ。受け入れられねばやせ細る。幸せな結末の舞台芸能は、もう、ない。悲恋、そして別離。それが時代に求められた結末だったということか。
 歌舞伎は美しく完成されていた。帰りの道は、土砂降りだった。

三年が経って……、異類の恋が迎えた結末。

 なぜ帰った、なぜ託した、なぜ開いた、なぜ別れた。どれか一つでも階段が抜けていれば、結末は変わっていただろうか。
 三年間もほったらかしだったくせに、ある日浦島は突然望郷の思いにかられ、帰りたいと申し出る。これが別れの種なのか。それとも彼が竜宮に背を向ける理由がほかにあったのか。いや、もしかしたら別れの種なんて最初からどこにもなかったのかもしれない。

 バーでこんな話を聞いた。「いやさ、別れの原因に、決定打なんてないっていうんだよ」。木製カウンターの向こうで妙に嬉しそうな顔をしたマスターが説明している。気になってカウンターに肘を突くと、続きを聞かせてくれた。
 とある情報番組の一部分。男女の別れをテーマにしたその回で、司会者がレポーターに尋ねたらしい。「きみは何で別れたの?」、それに対して、レポーターは「決定的な原因が分かっていれば、別れてなんていませんよ」。なるほどなるほど言い得て妙、いたく感銘を受けた様子のマスターは、早口でそのエピソードを締めくくった。「だからね、ささいなこと一つがきっかけで別れちゃうこともあるけどさ、原因は少しずついろんなところに転がってんの」。
 一説によると、恋心には賞味期限があるんだとか。手放しで相手に夢中になれるのは三年ほどで、相手との未来を思い描けないまま期限切れとなれば、恋は急速に冷めていくという。本能が強制終了作業にかかる。種の存続をかけた作業だ。
 そういえば、御伽草子でも風土記でも、男が海向こうで過ごした日々は三年とされていた。地に足をつけ早送りの日々を生きてきた男、海に棲み悠久の時を過ごしていた女。異なる時間を寄り添わせ、二人で歩んで三歳(みとせ)が過ぎた。異類の恋に未来なんてない。途切れた道に足を止めると警鐘が鳴り響く。心より深いところから動物の記憶がささやいた。回避セヨ、回避セヨ。未来ナキ道歩ムベカラズ。
 同じ未来を紡げない。心の底が気付き始めたときから、二人の恋はゆるやかにほころび始めていたのかもしれない。それは少しずつ広がって、慕情は薄く、疑心は強く。自分はここにいるべきなのか。気付けば周りは糸はしだらけ。最初に恋を綴った糸は、いったいどいつだったろう。深い海の色のなか、赤い糸は見えなくなった。男は人間として生きてきた記憶を手繰る。さておき今はもう一度、あの白浜に立ち返ろう。
 決定的な別れの種などなかった。ただ、動物の記憶が未来なき関係に怯えていた。もしかしたら、異類の女が感じた不安は、人間のそれより強いものだったのかもしれない。

海に重ねた幾多の願い。

永遠の愛、刹那の恋。どちらかにのみ真実がある、というわけでもなかろう。
 人間の衣を脱ぎ捨ててでも、浦島に幸せを掴んで欲しい。そう望んだ人々もその昔数多く存在し、水面を見、浜辺を見ては貧しく優しい庶民の恋愛成就を思い描いていた。そこにはその時代の純粋な想いがある。
 幸福な結末が今は語られていないというのもまた事実。古代から幾多の人々は、ときに永遠を、ときに悲恋を、水面に映しては不思議な話を語り継いできた。小さな浦の恋人たち、二人はいっとき幸せな結末を手にし、時代が流れて再び引き裂かれた。恋をし、別れて、老いていく。悲恋を語った人々は、どこまでも“人間”の恋物語を紡ごうとした。未来のない想いの中にはいったい何があるのだろう、悲しみか切なさか、それとも夢や憧憬だろうか。

 太古から人々に語り継がれてきた浦島伝説だ。年老いた浦島ががっくりと膝をついたというその浜は、日本のいたるところにある。島根にも同様の伝説があると聞いた。この地ではいったい、どのような結末が語られたのか。
灰色をした湖の切れ端で奇妙に明るい色のさざなみが立っている。宍道湖は寒々として、冬の訪れを感じさせた。涙の味の不思議な湖。海の方から昔の記憶も流れ込んでいたりして。いつかどこかのだれかの記憶。ゆらめく海をまぶたに映し、幸福な結末を夢見た記憶、二人の悲恋を嘆じた記憶。水の底には様々なかたちの恋のゆくえが、幾重にもおりかさなって沈んでいるらしい。

おわりに。

 noteをはじめてまもなく1ヶ月。ようやく浦島伝承のことを書けました。どうしたわけか、幼少期から「浦島太郎」が大好きで、大学ではこの謡曲「浦島」を研究主題にしていました。
 以前も書いたのですが、浦島って人間らしいんです。亀を助ける優しさをもち、禁忌を犯す弱さももって……。でも、亀を助けた心優しき青年が、郷里の浜辺で失意に暮れ、すがるように玉手箱を開けた、その代償が老いと死だなんて、そして乙姫との永遠の別離だなんて、哀しすぎるように感じてしまうんですよね。だから、ハッピーエンドの浦島伝承を追って研究をしていました。
 不思議なもので、幸せな結末を追えば追うほど、どうしてこの伝承は悲恋にしかならなかったのか、そっちが気になってきます。
 現在確認のできる古代の浦島伝説に、『丹後国風土記』に記されていたと考えられる「浦嶋子」(逸文『釈日本紀』)、『万葉集』巻九所収の「詠水江浦嶋一首併短歌」がありますが、この頃の伝説は浦島(浦嶋子)と乙姫(亀比売)の恋物語が中心。そしてやはり結末は別離です。冒頭の「若かりし膚(はだ)も皺みぬ 黒かりし髪も白けぬ」は、『万葉集』の一節。

 浦島って、ずっと悲恋の異類婚譚だったんですよね。

 どうして二人は別れてしまったんだろう。エッセイでは一応の考えを書いてみたものの、これはずっと私のなかにあるテーマで、結局のところその答えは定められるものではないように感じながらも、ときたまぼんやり、思いを馳せてしまいます。

 また、ときどき浦島のことを書いていきますので、よろしければお付き合いくださいませ。

学校コラムをまとめた一冊、
『おしゃべりな出席簿』もよろしくお願いいたします。


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