自分の仕事を見つけるために。
今日は、「ひきこもり」について書きたい。
最近、「ひきこもりだったのに外に出てこれて良かったですね」などと言われるけど、別に僕は人生が好転したとは思っていない。
ひきこもっていた時期も今のようにひとと関わっている時期も同じくらい大事だと思っている。
「ひきこもり」という言葉にはネガティブなイメージが定着してしている。ひきこもっているひとたちを可哀そうなひとたちだ、と社会はレッテルを貼る。
そもそも僕は人と関わることが嫌いなわけではない。むしろ他者とコミュニケーションを取るのは面白いと感じる。ほんとうに嫌いだったら、zoomで不特定多数のひとと対話などできるわけがない。
ただ、自分の場合、長い時間、人と一緒にいると疲れやすいだけだ。
僕がいわゆる「ひきこもり」になるきっかけになったのは、就活の時だった。
それまで、女の子の話とか、海外サッカーの話など、くだらない話をしていた同級生が髭を剃って、短髪にし、背筋を伸ばして、真っ黒のスーツを着て、社会人の仮面を被り始めてから「何かがおかしい」と思い始めた。
就職に関して、違和感を感じたのは、多くの学生が銀行とか、商社など「ここに入れば人生は安泰だろう」と言うような職探しを、深い動機を欠いたまましていることだった。
僕は十代の頃から、「ハートのささやき」と言うものを聞いてきた。大学受験の時、「この大学の、この学部の、この学科でなければ、大学なんて行きたくない」と思っていた。
大学に入ってからも、ただやりたいことだけをやった。ハートのおもむくままに。それは十代の頃から今まで変わっていない。
同級生たちは僕を腫れ物に触るような目で見ていた。それはそうだ。「就職をしない」という選択は、一生安泰と言われているような大手銀行や巨大メーカー、五大商社に内定が決まっていた彼らにとって、考えもつかない選択だったのだから。
やがて、僕は孤独になった。図書館にこもることになったのは、そこにしか自分の居場所がなかったからだ。
静かな図書館で、数千年前に書かれた神話や聖典、物語を読んでいる間、僕はある意味でタイムスリップをしていたのだと思う。それらの文章のなかにいる間、僕は現実社会から逃れることができたからだ。
僕がひきもっていたのは図書館だけではない。
図書館で作家になるために本の読み書きをしていたことで、体調をこわした。それのせいで、ある施設で療養していた時、毎日、山に登って、森の中で時間をつぶしていた。
図書館と森はよく似ている、と思う。そこには社会もなければ、他人もいない。他人がいないと内側に意識が向き始める。
山の上にある神社に毎日参拝するために、森のなかを歩いていた時、ふと、空を見上げると、空の青さに見入ってしまったことがある。
空と自分の境目が消えて、一体化するように感じた。僕はある日を境に、ワンネス体験をするようになっていた。
営業職のようにたくさんのひとと関わって、ビジネスマナーに気を使い、笑顔の練習をして、というようなことをしている場合、なかなか自分の内側に意識を向けることはできない。
それよりも仮面をかぶって、偽りの自分をいかに外の世界に気に入ってもらえるか、ということに意識を向ける。
今でこそ、外側に向かって発信し、zoomで対話したり、実際に会ったりしたりしているけれど、それができるのは、自分がひきこもっていたからだと思う。
もし、僕が孤独な二十代を通過していなかったとしたら、こうして発信活動なんてしていなかっただろう。語るべきことなんて何もなかったはずだ。
ひきこもっている間、ためこんできたものが抱えきれないほど大きくなった時、そのひとは我慢できずに外に出てくるのだと思う。それまではひきこもっていいのだ。
誰かが「外に出て行きなさい」と言われても、耳を貸さなくていい。どうせ、言われなくても我慢できなくなって、自分から出て行く。事象にはタイミングがある。それは自分でコントロールできない。
「わたしはこう言う人間だ」ということを表明できるくらいのオリジナリティを身に付けるためには、ひきこもらないといけないのだ。
「外に出て行け」というひとたちにはオリジナリティはない。みんな同じ顔をしている。口から出てくる言葉も同じだ。「社会」、「常識」、「将来」、「老後」、まるでロボットだ。
オリジナリティとは何か?
それは孤独にハートのささやきを聞いてはじめて生まれるものだ。ハートを生きるということは僕にとって、人生から一度、ドロップアウトするということだった。
そして、古代に書かれた本の中や、樹齢数千年の木々に囲まれて、静寂のうちに佇む時間を通りぬける必要があった。
暗いトンネルから出てきた時、そのひとは、変貌している。そのひとはある意味でもう人間ではない。人間を超えた何かだ。
そのひとは新しい何かを世界に提供するかもしれない。
僕は「ハートの花をひらく仕事」というタイトルで対話活動をしている。具体的には話をしたり、瞑想を一緒にしている。
「仕事」と銘打っているけれど、ビジネスとしての仕事ではない。でも僕にとっては仕事だ。そして、この仕事の準備をするために僕はひきこもっていたのかもしれない、と思う。
ただし、みんなが会社をやめて好きなことを仕事にする、学校を中退して、ひきこもればいい、というわけではないと思う。それは、ある意味で危険だと思う。誰も人生を保証してくれない。
ひきこもりになる人たちと言うのは、やむにやまれず、ひきこもりになってしまうのであって、自分の意志を超えているのだ。
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