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ハートに避難すること。

あるがままに、くつろぐとはどういうことだろう?

くつろぐ、とは重力に逆らわないことだ。

地球には重力がある。重力と言うのは下に引っ張られること。だから、それに逆らわずに、意識を自然に下方に向かって、根を張るようイメージして座る。息を吐きながら、リラックスして、地球に沈みこんでゆくように、溶けてゆくようにする。

でも、これだけではくつろぐことはできない。なぜなら、思考が湧いてくるからだ。

たとえ、思考が湧いてきても、それに気づけば良い。

観照意識を持つことだ。(観照意識と言うのは、たとえば、交差点に立っている時、あそこに女のひとがいる、綺麗だな、と一々判断しないで、見えている街の景色をぼんやり眺めることです。俯瞰して街の風景全体を捉えることです)

重力に身を任せながら、くつろぎ、観照意識によって心の動きに気づいていると、少しずつ「わたし」という自我意識がうすれてくる。僕であれば、引っ込み思案で、喘息持ちで……というNaokiとしてのアイデンティティーが薄れてゆく。

不安や恐怖などの感情がやってきたら、深呼吸して、くつろぎに戻る。そうすると、思考の「わたし」ではない、大きな自己(真我)とも呼ばれる空間そのものが立ち現れる。

この宇宙は目に見えないエネルギーでできている。人間も動物も、パソコンも椅子も机も。実態は存在していない。現代風に言うと素粒子だ。

インドで言うプラーナと言っていいかもしれない。四年ほど前、理由は分からないけれど、人間の身体の周りを覆っている粒子状の白い光のモヤが見え始めた。

その時から、自分たちは粒子の集まりなのだということを実感しはじめた。そして、全ては夢であり、幻想であり、空だ、と言うことも信じるようになった。

時々、観照意識で交差点に立っていると、全てが幻想のように思える。粒子の波がダンスをしているように見える。

全てのものが素粒子の集まりでしかない、ということを知ると(科学的にも証明されています)、ゆるしが起こる。ひとと対話する時、そのひとの性格とか、外見ではない内側の光──魂のようなものを感じることができるようになる。

そのひとがたとえ、病気や借金を抱えていたとしても、そのひとの内側にある光は汚されていないということが分かる。

ただくつろいで、観照していると、ありのままの世界が立ち現れる。そこには静かな愛がある。

なぜなら、ハートがあるからだ。くつろいで、観照しているだけでは安らぎは感じられない。

愛がなければいけないのだ。ハートの愛が……

ハートに意識を向けると、自動的に安心感を覚える。なぜならそこは魂の家だからだ。

くつろいで、気づきの意識を保ち、ハートに意識を向けると、「私は在る(I AM)」と言う聖者や覚者たちの間で使われてきた言葉が分かる。

くつろぎながら、ハートを感じている時、人は完全に、「今ここ」、「永遠の今」にいる。不安や恐怖もない。安らぎだけがある。

それは一月の凍てつくような夜に、湯舟の中で身体を温めているような──日の出の太陽の光を浴びているような安らぎだ。

人間の胸にあるハート・センターは、宇宙全体につながっている。ワンネスはハートを通じてしか感じることができない。ハートのなかに自我意識が溶け去った時、ワンネスを感じる。

自動思考は止まるわけではない。思考は出てくる。でも、別に苦しくなんてない。ハートに留まっているから。

ハートは太陽のようなものだ。

より高い場所にいる太陽にとって、雲がいくら漂っていようが関係ない。思考は雲だ。だから、僕は思考を止めようと思ったことは一度もない。思考が出てきたら、ただ気づくだけだ。気づいたら、くつろぐ。それだけだ。

不安が襲ってきたら、それに気づいてハートに戻る。ハートには本当の自分がいる。家がある。そこに避難するように。

この世界は夢だ。


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