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祈りとは何か

あらゆる音楽家たちに、問いかけてみたい。
祈りの本質とは何ですか、と。

たぶん、宗教学者でもない限り、そんなに納得いくような哲学的な答えは返ってこないかもしれないけれど、それでも尋ねたくなる。
なぜなら、音楽家たちは、さまざまな聖性を音楽作品のなかで深く体験しているはずだから。作曲家たちの祈りを、無形の知恵として体内に抱えているはずだから。

ミシェル・コルボに、フォーレのレクイエムにおける祈りの本質について尋ねたら、案外答えは平易なもので、特にこの曲の場合、そんなに宗教的に深く考える必要はなくて、癒しの音楽ととらえてもらっていいと思う、と答えたことがあった。

ここに挙げた写真は、2018年10月にパナソニック汐留ミュージアムで撮影した、ルオー作のステンドグラスであるが、ルオーの絵画を力強く普遍的なものにさせているのは、何よりもこの画家がキリスト教の信仰について深い思いを抱いていたことが、作品から伝わってくるからだと思う。

ドストエフスキーの作品において固定楽想のようにたびたび繰り返されるのが、「神は存在すると思いますか?」という問いかけである。ヴェルディのオペラにおいても、無垢な祈りの美しさとの対比において、教会の欺瞞はしばしば強調され、神は存在するや否やという無言の問いを突き付けてくる。

ヘンデルの「メサイア」を鑑賞した聴衆は、まばゆいばかりの神の栄光を音のスペクタクルで体験することになる。たとえキリスト教の神を信じていなくとも、このちっぽけな人間世界の外側にいる偉大で善なる存在のありかを、意識せずにはいられなくなる。
(そういえば川口リリアホールで聴いたアントネッロの演奏は、他の団体のメサイアとはあまりにも異なる、言葉の意味をしばしば極端に強調し、醜いものや庶民的なものも存分に盛り込んだ、演劇的かつ野性的なメサイアだった。濱田芳通さんほど、いわゆるオーガニックで上質な古楽という考え方から遠い人も珍しい。一言でいえば、濱田さんの音楽からは「飼い慣らされていない」人のラディカルさが感じられる。それは、彼がルネサンスや中世の音楽から汲み上げてきたものなのだと思う)

先月、父の死に接してから、これまでに以上に、神とは何か、祈りとは何か、という問題が自分にとって現実的なものになった。遺骨とは何なのか、位牌とは何なのか。仏壇とは何なのか。焼香をあげてチンと鳴らして手を合わせる、その行為とは何なのか。とことん無宗教で暮らしてきた者にとって、日頃の付き合いもなかった聖職者に多額の謝礼を払うことに何の意味があるのか。儀式を重んじるのは結構だが、その意味について考えなくともよいのだろうか。
私はジョン・レノンの影響をとても強く受けているので、「イマジン」で語られているように、天国も地獄も信じていない。神の存在も死後の世界も信じていない。それでも不思議なことに、神は存在するのか否か、祈りという行為の本質は何なのか、問いかけずにはいられない。

音楽はその問いに答えてくれるだろうか。

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