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太宰治を読む。まとめ。【7/23更新】


「太宰治を読む前に」【5/11執筆】

太宰治の作品は、中学授業時に学んだ「走れメロス」を除き、大学入学後から読み始め、直近で何冊か読み漁った程度のものである。

相馬正一の分類によると、①私小説的系列の「人間失格」、②物語的系列の「女生徒」、「走れメロス」、③中間的系列の「ヴィヨンの妻」、「斜陽」の5冊を読んできた。

太宰治の作品は、その物語の全てを太宰治の人生と照らし合わせることで、まるで太宰治と同じ時を過ごしているかのような錯覚を覚え、私の心に強く響いたものであるが、あくまで物語の作品として、太宰治作者本人と切り離して考えていくことに、今回初めて取り組んでいきたいと考えている。

また、本noteは、追記していく形をとる。

個人のメモのようなものであるが、「太宰治の作品を読んでみたい」と思ってくれる方が1人でも現れたら、私にとってはこの上ない喜びである。


「女生徒 太宰治」 【5/12執筆】

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弱冠14歳の女生徒が、起床から就寝までに過ごしたありふれた日常のわずか1日を、丁寧に叙述している点に心惹かれる。

また、太宰治の女性の心理描写の巧さに驚きながら、女生徒が1日で経験する出来事に対する喜怒哀楽の心の変化に、こちらも心を動かされる。

そして、女生徒は、時折「自己嫌悪」に陥る。電車で見かけたおばさんに対する嫌悪感、来客のご機嫌を取る母に対する嫌気を抱かずにはいられないが、自らも同じ女性であること、また母と同じことをしてしまう自分の弱さに気付き、「自己嫌悪」を抱く。

こういった、ごくありふれた日常の中で、ましてや1日という短い期間の中で、女生徒が「自己嫌悪」を抱いてしまうことに、私は強く共感する。

太宰治の作品は、太宰治自身と切っても切り離せない関係にあると考えてきたし、なによりそういった読み方が「正解」であると信じ込んできた。その読み方から見える太宰治の幻想が、私の心の拠り所にすらなっている節がある。

だからこそ、主観から離れ、客観的かつ冷徹に「物語」を分析できるようになりたいと考え、執筆を決意した。

余談だが、「女生徒」を読み始めた契機は、川端康成から認められたというエピソードを知ったからである。ここでは、出来る限り先入観を取り除くため、あえて「人間失格」や「斜陽」を取り上げなかった。


「魚服記 太宰治」【5/19執筆】

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「魚服記」全体として、不思議な物語であると感じた。

とりわけ印象に残っているのは、「スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。山に生まれた鬼子であるから…」の描写である。

ここまで読み進めて初めて、スワが鬼子であることが明らかになるのだが、私は鬼子の解釈に些か戸惑った。

文字通り「鬼の子ども」だと思ったのであるが、念のため辞書を引くと「両親に似ない子。歯が生えて生まれた子。荒々しい子。」等の意味がある。

一旦疑問を抱えて読み進めると、「あかちゃけた短い髪」の描写があり、ここで初めて「鬼の子ども」だと納得することができた。

スワの描写に着目して読み進めることで、「鬼の子」から「おんな」、そして「鮒」への変化もより一層際立って感じられた。


ここからは、反省である。

私は解説資料を読んで愕然とした。

「作品を読む際、このように細かい描写が見過ごされ、登場人物を分かりやすいイメージとして捉えてしまうことも多いだろう。」の一文に、私の太宰治に対する読み方のクセを強く指摘されたからだ。

先入観を排した(と思われた)感想では、「鬼子」に対する解釈について言及したが、私の視点はスワの一挙手一投足に注がれており、父親の細かな描写を看過してしまっていたのだ。

「呟きながら」、「だまつて」、「ぎくつとすぼめた」、「もぢもぢと手をおろした」などの描写の記憶が薄いことから、一語一句の丁寧な読解が出来ていないことを実感させられる。

このようなありさまでは、とても先行研究に対して反論を述べ立てるような資格などないように思える。端的に言って「読みが浅い」のだ。

太宰治の作品を、太宰治と切り離して読むために、細かな描写にも留意して他作品を読んでいきたい。

余談だが、私は学びの違いにも驚きを隠せない。政治経済学部の学生としてではなく、文学部の学生として、太宰治の文学に向き合っていかねばならないという決意を固めたのである。


「ロマネスク 太宰治」【5/26執筆】

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「ロマネスク」が面白いのは、仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎、それぞれ三者三様の形式で、「比類なき才能は、絶大な能力とともに、またその大きな責任をも伴う」という結末に達する点であろう。

しかも、それぞれの話が完結しているかのように見せかけて、最終的に3人が一堂に会する場面は興奮を抑えきれない。

仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎の3人が引き起こす事の顛末を見届けた私にとって、その3人が同じ場所で酒を酌み交わす場面は、まるで「時代と場所を隔てた歴史的偉人の3名が一堂に会して語らう映画」のようなものを見ているかのような心持ちであった。

アベンジャーズである。

「ロマネスク」を初読した際に、仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎の主人公たちに加えて、父親の存在が強く描かれていることに関心を持った。

なぜ、三作品とも共通して父親の存在が強調されているのか、些か疑問であったが、父親の息子への関心の有無、つまるところ他者から判ってもらえるような(もちろん本質的には誰も判ることなどできないのだが)環境下にいるかどうかによって差別化されているという解釈に納得した。

仙術太郎、喧嘩次郎兵衛は、父親から息子に対しての描写が多くあり、息子に関心を持って接していることが分かるが、他方で嘘の三郎は、父親の黄村との関係性が冷え切っている様子である。文字通り、関係性が冷えており、父子のあたたかな描写などは見受けられない。

心底驚いたのは、最終的には父親から関心を持たれていない嘘の三郎が場を掌握し、3人が1人に統一され、またそれが太宰治の分身であるという解釈の存在である。「三郎は太郎・次郎兵衛の物語を内側からものにする」というのだ。

三者の父親との関係性や一堂に会す場面を通じて、「根本的に人間は分かり合えない」というメッセージを強く伝えている「ロマネスク」において、3人が1人に統一されるという解釈には合点がいかないのもまた事実である。

また、タイトル「ロマネスク」の語義を読む前に調べたところ、「十世紀前後、西ヨーロッパに広まった美術・建築上の様式。古代ヨーロッパの要素に東洋趣味を加えた。」との意味がある。

こちらを参考にしたとばかり思っていたのだが、この意味での「ロマン」や「ロマネスク」というよりも、「荒唐無稽」、「俗物的」、「非現実的」などの解釈が主流で驚いた。美術様式は関係ないのだろうか?


「列車 太宰治」【5/27執筆】

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この作品もまた太宰治と切り離して考えることは、とても難しい作業になるだろう。

短編小説なので気軽に読むことができるのだが、一貫して重苦しい雰囲気のまま物語は進んでいく。

主な登場人物は、主人公とその妻、汐田とテツさんの四名であり、タイトルにある通り「列車」を中心に据えた物語であるように感じた。

冒頭部分「列車番号は一〇三。番号からして気持が悪い。」に対する私の疑問は、解決されぬまま物語が終わってしまった。なぜ気持が悪いのか。未だに喉に魚の小骨が突き刺さっているような心持ちである。

また、上野から青森へ向けて走る一〇三の列車について、「この列車は幾万人の愛情を引き裂いたことか。」との描写があり、主人公だけでなく多くの人々がこの列車に対して良からぬ感情を抱いていることが明らかにされている。

戦時中という背景と主人公の厭な思い出が相まって暗い表現になっているのだろうが、別に列車自身は何も悪くなく、喜怒哀楽それぞれの物語があるだろうに、と思ってしまうが、浅はかだろうか。

「列車」を媒介とした、人々の暗い気持ちが丹念に描出されており、読後の感想としては、短編小説であるが、非常に読み応えのある作品であると感じている。

「逆行 太宰治」【5/29執筆】

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太宰治の「逆行」を読んだ。タイトルが謎である。

「逆行」とは、ものの順序や流れにさからう方向に進むこと。なるほど、この小説は四遍が逆行して進むのではないか。仮説を立てて読み進めた。

蝶蝶は死ぬ間際、盗賊は大学時代、決闘は高校時代、くろんぼは少年時代、時代が逆行しているのだろうか。

だがしかし、ここでまた疑問が浮かび上がる。「逆行」は、四遍を繋げて読むのか、別々に読むのか。四遍に明確な関連性が認められず、盗賊は帝国大学新聞に、そのほか三編は文藝にしたためられたものらしい。

どうやら、別々に読むのかもしれない。すると、タイトルの「逆行」は何を意味するのか。

とすると、四遍が逆行して進んでいるのではなく、四遍全てが人生や世間に逆行して生きているという示唆だろうか。

またもや太宰治と切り離す作業が必要になる解釈だが、四遍全ての主人公は、周囲への反発から、自らの内に虚無感を抱いており、これが共通のテーマであるように思える。

だから、「逆行」なのか。

どちらにしても、疑問はすっきり解消されていない。

なんとなくこちらまで読後の虚無感が残る、そんな作品であった。


「玩具 太宰治」【5/30執筆】

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これまた不思議な短編小説である。

「私は書きたくないのである。書こうか。私の赤児のときの思い出だけでもよいのなら、一日にたった五六行ずつ書いていってもよいのなら、君だけでも丁寧に丁寧に読んで呉れるというのなら。」

太宰治と物語としての小説を切り離そうと悪戦苦闘しながら読み進めている私にとって、これほどの邪魔があろうか。もはや著者の太宰治自身が小説の中に入り込み、そっと私に語りかけてくるのだから。

太宰治自身が「書きたくない」と明言しながらも書き連ねた「玩具」という作品は、1〜3歳の時の記憶をもとにしており、しかも未完で終わる。

本当に謎多き作品だと思う。私自身、1〜3歳の記憶は定かではないし、記憶を辿ってもそれが嘘か真か判別つかないのである。

それは後から取って付けた記憶なのか、それとも本当に1〜3歳の頃の記憶なのか、私には分からない。

きっと主人公も同じ感覚に陥っているのだろう。

1〜3歳の頃、特に祖母との記憶は、嘘か真か分からないが、私の心の奥底にも強く眠っているような感じがする。

そんなことを思い出させてくれる、夢物語の中のような、忘却の記憶の彼方にいるような、不思議な心地である。


「めくら草紙 太宰治」【6/1執筆】

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「めくら草紙」は、「列車」と「玩具」同様、『晩年』所収の作品であり、特にこれら3作品は極めて太宰治自身の人生と切っても切り離せない性質の小説であるように思う。

本作の前半部分は、小説内に明記されているようにマツ子に代筆してもらっており、文学的な表現が多く、「枕草子」からの引用も見受けられる。

一方で、後半部分は、太宰治自身が筆を執っているとあり、太宰治の存在が色濃く、前後半で文体が大きく異なっているのが特徴である。

全体として、特にマツ子の存在感が強く、マツ子の為にある小説と言っても過言ではないだろう。

「マツ子のことについて、これ以上、書くのは、いやだ。書きたくないのだ。私はこの子をいのちかけて大切にして居る。」とあるように、主人公がマツ子のことを重く愛している描写が印象的である。

また、「なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思うな。ただ、生きて在れ!」という強烈なメッセージが、誰に向けて書かれたものか、解釈が割れるだろう。

太宰治自身に向けたものか、マツ子か、読者か。

「お隣りのマツ子は、この小説を読み、もはや私の家へ来ないだろう。私はマツ子に傷をつけたのだから。涙はそのゆえにもまた、こんなに、あとからあとから湧いて出るのか。」とあることから、私は太宰治からマツ子に向けた言葉であると解釈している。

太宰治は、彼女に筆を執らせ、彼女に伝えようとしたのかもしれない。

彼女を重く愛し、彼女に生きていてほしいと願う、太宰治の激情が伝わってくる。

今回は特に太宰治自身と小説を切り離すという元来の目的に沿うことができず、至極残念であるが、複数作品を読むと太宰治の色が濃い作品はやはり突出して精神的、文学的に不安定であることがうかがえる。


「地球図 太宰治」【6/2執筆】

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「シロオテ」が「シドッチ」を指すということは、物語を読み進める途中で気付いた。

また、日本史の知識から、新井白石とシドッチの物語だと考え、これはどうやら実話を元にした創作小説なのではないかと勘付いたのである。

特に3回に渡る新井白石とシロオテの会見は、読み応えがある。

「新井白石は、シロオテとの会見を心待ちにしていた。白石は言葉について心配をした。」という描写があるように、言葉の壁を感じながらもシロオテとの会見を楽しみにしている白石の存在が浮き彫りになっている。とても印象的である。


残念なのは、結末部分である。

新井白石が将軍に言上した3つの策「第一にかれを本国へ返さるる事は上策也(此事難きに似て易き歟)、第二にかれを囚となしてたすけ置るる事は中策也(此事易きに似て尤難し)、第三にかれを誅せらるる事は下策也(此事易くして易かるべし)」のうち、中策を選択した将軍の決断も虚しく、下策同様の最期を迎えてしまうからだ。

シロオテの人生は、あまりにも報われないではないか。3年間の日本語学習も十分な成果が得られず、布教活動もうまくいかず、「間もなく牢死」では、いたたまれない。

私が彼の名前を知っているということは、彼が日本に少なからず影響を残した人物であることには違いないが、それは死後のことであって、生前の彼の人生は満足いくものであったとは到底いえないだろう。


山内祥史 「「地球図」論(続)」(『太宰治研究2』、和泉書院 平成八年一月)にある、「シロオテのような人物を「牢死」させる「策を採つた」、将軍や白石に対する批判の言葉といえよう。」には、強く同意できる。

物語の結末部分では、「将軍は中策を採って、シロオテをそののち永く切支丹屋敷の獄舎につないで置いた。」や、シロオテは「たいへんいじめられ」、「折檻されながらも」、「日夜、長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。」とあり、シロオテが志半ばで惨めに死んでいくさまが端的かつ強烈に描き出されており、これを「将軍や白石に対する批判の言葉」と取らずして、なにと取ろうか。

「それから間もなく牢死した。下策をもちいたもおなじことであった。」と、シロオテを失う結果となる下策を採った将軍や白石の決断をさらに強く批判し、物語を締めている。

本文の根拠と山内氏の先行研究とを照らし合わせてみても、やはりこれは「将軍や白石に対する批判の言葉」と取る他にないだろう。


「駈込み訴え 太宰治」【6/9執筆】

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「私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。」

この物語は、「私」から「あの人」への重く強い愛情が丹念に描かれている。特徴的なのは、さまざまな「愛情」を丁寧に表現している点である。

時に純粋な「愛情」かと思えば、「ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。」にあるような嫉妬にまみれた「愛情」、「一日も早くあの人を殺してあげなければならぬ」にあるような憎悪に満ちた「愛情」など、「私」が「あの人」に抱く「愛情」の七変化が強く印象に残っている。

正直なところ、冒頭部分では物語の流れを掴むことができなかったが、弟子の名前のヒントを集めていくうちに、「あの人」がイエスキリストであることに気付き、納得できた。


北條綾音「『駈込み訴へ』の方法と戦略――語り・主題のアンビバレンス――」(『国文』、平成二十四年七月)では、「この語りは、下敷きとなっている聖書やキリスト教に関する基本的な知識が作者と読者の間で共有されている、という前提に立つものである。」との記述があり、概ね同意できる。

裏を返すと、「基本的な知識」が不足している場合、物語の読みが浅くなってしまうということになるだろう。つまり、現代風に言うと、元ネタを知らない人には分からない、ということになろう。

とりわけ「駈込み訴へ」では、あまりにも前提条件を物語外に依拠しすぎではないだろうか。

北條氏はこのように続けている。

「従って登場人物の造形は、あらかじめ作品外の情報によって個性や役割を少なからず規定されているものと考えられる。」と。

物語の途中で、聖書の影響を受けている程度のものであれば、おそらく基本的な知識がなくとも全容を理解できるだろうが、物語の前提から聖書に寄りかかる形式では、読み手を選ぶことになろう。

作者の独りよがりではないだろうか。もしくは、作者本人が、聖書の影響を受けていない人間を読者から排除しようと企図したのやもしれぬ。

先行研究が数多くあること、また解釈も割れ、賛否両論ある点からも、この結果が窺える。作者の意図的か否か不明だが。


「走れメロス 太宰治」【6/16執筆】

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「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」の有名な冒頭部分から始まり、「どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」の王様の発言で終わる。

主人公たちの正義的な働きかけによって、悪役が最後には心を改めるという、物語としてはテンプレートのような起承転結である。

どこにでもありふれたストーリーであるにもかかわらず、心を動かされるのは何故だろうか。

それはやはり、メロスの奔走、自身との葛藤、セリヌンティウスとの友情などが、第三者の視点から迫力満点に語られているからだろう。

私たちは、主人公のメロスに感情移入し、心からメロスを応援し、時に励まし時に怒り、喜怒哀楽を共にしさえしてしまうのだ。

私たちは、メロスの実直さに心打たれるのである。


東郷克美「『走れメロス』をめぐって」(『国文学 解釈と教材の研究』、昭和三十八年四月)の中で、「『走れメロス』とは対照的に、『駈込み訴へ』に形象化される。」の記述があり、私は同意する。

信じていること、信じられていること、の双方向的な信頼関係が結実した『走れメロス』と、信じることができずに裏切ってしまうことから生まれる罪の意識が表出した『駈込み訴へ』は、裏表の関係であろう。

また、東郷氏は、「太宰の文体は『走れメロス』的世界と『人間失格』的世界をゆれうごいていたのだ。メロスと大庭葉蔵は太宰の双生児なのだ。」とも述べている。

『人間失格』との比較によって、太宰の文体からも物語を眺めることができる。太宰の中にある陰陽の感情のうち、陰が『人間失格』であり、陽が『走れメロス』であることから、太宰の中にも「信じる。信じたい。」という感情の存在がうかがえる。

『走れメロス』は、『駈込み訴へ』や『人間失格』と異なり、作者の中の明るい感情を表現したものであり、つまるところそれが今でも多くの人々の心を動かしている要因だと気付かされるのだ。


「清貧譚 太宰治」【6/23執筆】

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「以下に記すのは、かの聊斎志異の中の一篇である。」

元の中国の清代の短編小説集に、作者本人が空想を付け足したものが「清貧譚」であるとわかる。

主な登場人物は、才之助、三郎、黄英の3人のみであり、菊の花が物語の鍵を握っている。中国の短編小説が元になっているからか、ファンタジー要素あふれるストーリー展開であり、物語の中に引き込まれる。

物語の結末部分では、「みるみる三郎のからだは溶けて、煙となり、あとには着物と草履だけが残つた。」とあり、「黄英のからだに就いては、「亦他異無し。」と原文に書かれてある。」とあるが、なぜ三郎だけ菊の姿に戻り、黄英は人間のままであるかが明らかにされていない。

三郎は酒を飲んだことで元の姿に戻ったが、黄英は酒を飲まず、また才之助に愛されたことから人間で居続けることができたのではないか、と考えている。


奥野健男「解脱」(『お伽草子』、新潮社、昭和四十七年二月)では、「"菊づくりは誰のためにするの"それは芸術の永遠の矛盾である。」とある。

奥野は、清貧譚を通じて芸術家の根本的な問題について触れており、私自身もこの問題について深く考えていきたいと思う。

「清貧譚」から浮かび上がるのは、三郎のように生きていくために菊を咲かせて売るのか、才之助のように自分のために菊を咲かせるのか、という二項対立の問いである。

この問いは、芸術家のみならず文化全般によるものだと私は考えている。

果たして、絵を描くのは、菊をつくるのは、金稼ぎの為か、自分の表現の為か。つまるところ、大衆に迎合するか、自分の内なる声に耳を傾けるか、の違いであると私は考えている。

この問題は非常に難しい。大衆に迎合すると芸術家の納得のいく熱のこもった作品は生まれにくいが、生きていくためには大衆に迎合して絵や菊を売らねばなるまい。二律背反である。

奥野は、この問いについて「永遠の矛盾である。」と断言している。

「清貧譚」でも、この問いに対する解答が用意されておらず、まさに永遠の矛盾であると言えるだろう。



「竹青 太宰治」【6/30執筆】

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結末に「自註。これは、創作である。支那のひとたちに読んでもらいたくて書いた。漢訳せられる筈である。」とある。

サブタイトルには、「――新曲聊斎志異――」とあり、冒頭では「むかし湖南の何とやら群邑に」とある。

支那、今で言う中国の人達に向けて作られた物語であるため、本文の至る所に中国の雰囲気を感じる描写の多くあることが読み取れる。

『清貧譚』もまた、聊斎志異の中の一遍を元にしているため、両物語とも空想的な世界観の中に惹き込む魅力を持っている。

農夫が魚容に向けて言った、「人間万事塞翁の馬。」という発言では、中国の故事成語をまさに用いており、中国色の強い物語であることが窺える。

烏と人間の物語は、馴染みがなかったが、烏視点はとても新鮮であり、非常に面白さを感じながら読みすすめることができた。



奥野健男「解説」(『お伽草紙』、新潮社、昭和四十七年二月)では、

「『清貧譚』と同じ『聊斎志異』からヒントを得たものであるが、太宰の空想は鳥のごとく大空に翔いている。戦禍と占領の苦難の中にいる中国の人々に、どうか現世の生きる希望を失わないでくれと贖罪の心を潜め祈るような気持で書いた作品のようにぼくには思われる。」

と書かれており、『竹青』の初出年を見る限りでは日中戦争のことを言っていると思われる。


なぜ、作者は『竹青』を支那の人々に読んでほしかったのか。

このことを明らかにすることで、『竹青』の主題が見えてくるだろう。

『竹青』は、最終的に人間界に戻り、故郷へと帰る場面で終わる。

祝振媛「太宰治と中国――太宰の『竹青』の中の郷愁の世界を中心に」(『国文学解釈と鑑賞』、平成十年六月)では、「太宰作品のなかの主人公にとって、唯一の郷愁から脱出する方法は作品の結末のように脱俗の姿をしないで、故郷の風土と一体化することである。」とあり、魚容は故郷の風土と一体化し、人間界に舞い戻ったのである。

奥野と祝の意見に、私は同意する。

『竹青』では、魚容の人間界からの解脱、故郷との一体化、人間界への復帰を描くことで、中国の人々に人間界の尊さと儚さを同時に伝え、本来の故郷、人間界を思い起こさせ、勇気づける意図が隠されているのだろう。

これが、『竹青』の主題であると同時に、日本人の作者の贖罪でもあるのだ。


「お伽草紙 太宰治」【7/14執筆】

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 「舌切雀」

原作をほとんど知らない状況で読んだので、他の作品と比べて新鮮な気持ちで読み進めることができた。

「しかし、お爺さんは、そのやうなお世辞を聞く度毎に、幽かに苦笑して、「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました。」と言つたさうだ。」の結末文に、お爺さんの人柄が色濃く現れていると感じ、強く印象に残っている。

終始、いがみあっていた2人だが、やはり死後には相手の存在を認め、素直に感謝を表すことができるようになるものなのかと不思議に思う。

お婆さんが持ち帰った重い大きい葛籠の中に詰まっていた金貨のおかげで、お爺さんは立身出世するわけであるが、上記の結末文を読むと、仕事とお金を手にした人間の心には余裕が生まれるということを暗喩しているのではないかと考えた。


なぜ「舌切雀」の結末が大きく変更されているか


「つまり、『お伽草紙』の四つの昔話の中で、結末が大きく変更されているのは結尾に置かれた「舌切雀」のみなのである。この変更は大きな意味を持つだろう。「舌切雀」を読み解くうえで、結末部の解釈は避けて通れないものであると考えた。」とあるように、私自身も感想で述べたとおり、結末部について深く考える必要があると認識している。

原作と見比べても、やはり原型をとどめていないほどに大きな変更がなされていることが確認できる。

なぜ、作者は『お伽草紙』の結尾に置いた「舌切雀」の結末を原作と異なる内容にしたのだろうか。

この疑問に答えるためには、「変更した点には作者である太宰の書きたかったことが強く表れていると考えられる」とあるように、作者の思惑を考える必要があるだろう。

太宰が『お伽草紙』で描こうとしたのは、「所謂「不正」の事件は、一つも無かつたのに、それでも不幸な人が出てしまつた」という「性格の悲喜劇」であり、つまりそれは世の無常を表現しているのではないだろうか、と私は考えている。

「舌切雀」の結末部からは、人生は勧善懲悪ではなく、悪事を働かなくとも死ぬことがあり、また善行を積まなくとも恩恵を受けることがあるものだという作者のメッセージを読み取ることができる。

『竹青』に「人間万事塞翁の馬。」という言葉があることも、このメッセージを裏付けるものであろう。



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