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Vol_24:親の無謬性

ご無沙汰しております。
最近は、組織マネジメントだけでなく、子育てにも悩んでいます。

悩みのテーマは「無謬性(むびゅうせい)」


スマホの普及で未成年とか子もどが色々な情報に触れる世の中になってきました。子どもに対する情報規制の強化を主張する人がいて、これはこれで分からないでもないのですが、僕はかなり自由にやらせています。

息子はすでにiPadを使いこなし、彼にレコメンドされてくる動画をどんどん見ています。気づけば海外のグロテスクな動画にたどり着いており、それを興味津々にずっと見ている。

既に未成年がスマホを持つのは普通となっており、きっと僕の息子と娘が学生になる頃は未成年が会社や事業を持ち、両親よりもおカネを持っているなんてこともあるだろう。

今の時代、どんなにこちらが抑制しても情報にはアクセスし放題です。
抑制や規制という考え方にそもそも無理があります。
「こういうものにはあまり触れないほうがいいんじゃないの?」と思った時には理由を説明するようにしていますが、実際にはそういう機会はほとんどありません。というのは、情報端末がiPadだと何を見ているのかも分からないわけで。

親の無謬性を前提に子どもに接する人がいます。
これはマネジメントにも通ずると思っているのですが、この「親の無謬前提」は昭和期までは普通でした。とくに男親。例えば、サザエさんの波平は親として無謬前提のもとにカツオに接しています。
これが過去においては普通のお父さんの行動様式でした。うちの父もまったく同じ。そして過去の上司も全く同じでした。

無謬(むびゅう)=思考や判断に間違いがないこと。

無謬前提を採用するかどうか。
これは子育て&マネジメントのかなり根本にある選択だと思っている。
僕はかなりいい加減な性格ですけど、子育てとマネジメントにおいて「自分のことを棚に上げない」ことだけは絶えず意識している。
親の無謬前提にはそれなりの意義もあるのですが、一歩間違うと、「自分のことは棚に上げて……」ということになります。それは長期的に見て、うまくいかないのではないかと考えました。

最近の悩みのタネです。

だいたい自分はそんなに立派な人間じゃない。結局は子どもにもメンバーにも見透かされます。自分が子どもだった時のことを考えても、子どもというのは基本的にロクでもないことを考えたりやったりするものです。それはもう仕方がない。若いビジネスパーソンも同じ。滑った転んだの中で学んでいくしかないんですね。
僕なりの答えとしては、最初からなにか制限しようとするよりも、基本的には子どもの判断に任せて、悪いことをやったら事後的に対処をする。ただ致命傷を負わない程度に見守る。これがイイのではないかと思っています。


「やってみなはれ」は、サントリー創業者鳥井信治郎の口癖。

これはまさに自身の無謬性を前提にしていないから出てくる言葉。
これによって伸びた才能がたくさんあったのではないかと思うんです。

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