雪幻館の殺人
1
今日は、昨日からすごい大雪です。
ジキル氏が妻と女の子と暮らす大きな館も、真っ白におおわれて、とても外には出られません。まるで地続きに絶たれた孤島です。
「……」
食後の珈琲を待つジキル氏は、穏やかな笑みを浮かべ、キッチンのカミーユ嬢を見守っています。
キッチンでは、まだ七歳の天才子役カミーユ嬢が、一生懸命に珈琲を淹れているからです。
「パパー! できたよー!」
そーっとそーっと、カミーユ嬢がトレーを持ってやってきます。トレーの上では、淹れたて熱々の珈琲から、白い湯気が立ち昇って元気です。
「よくできたねぇ。パパのはどれかな?」
「これー!」
カミーユ嬢が元気よく、珈琲を一杯、テーブルの上へと運びます。残りは三杯。
「ふふ。オーエン先生のは?」
母の声に娘は答えます。
「うーんと、これーっ!」
「ハハハハハ。ありがとう、愛しいカミーユ」
そう言って目を細めているのは、ジキル氏の主治医であるオーエン医師です。
往診に来ていたオーエン医師は、この雪で帰ることができず、この館に泊まっているのです。トレーの上の珈琲は後二つ。
「それじゃあ、ママのは?」
「うーん……、こっち!」
ジキル氏の妻であり人気女優のアイリーンが、愛娘の淹れた珈琲を受け取り、トレーに残ったカップはもう一つ。
これで、カミーユ嬢の珈琲も決まりました。自分で淹れて、自分で選んだ、最後の一杯です。
誰も手出しはしていません。だって、カミーユ嬢は一人でできるのですから。
そして何もなくなりました。トレーの上は寒いです。まるで今日のお外みたいに。
「それじゃあ、いただこうか」
全員の手に珈琲が行き渡り、さあ、食後の余韻を珈琲がぶち壊します。はじまりはじまり。
「う~ん、美味しく入ってるねぇ」
そういうジキル氏の前で、カミーユ嬢は顔をしかめました。
「……んっ! 苦い」
「ははは。それは、珈琲だからね」
笑いが起こる中、カミーユ嬢は立ち上がり、キッチンに向かったかと思うとドタンと倒れました。
「きゃっ!」
「!? 大丈夫か、カミーユ!」
立ち上がるジキル氏を手で制し、オーエン医師がカミーユ嬢に駆け寄ります。
「……死んでいる」
「ふっ。冗談はやめてください、オーエン先生」
「そんな笑えない冗談を、私が言うと思いますか?」
「嘘……」
名女優アイリーンがそう言うと、それはまるで、映画のワンシーンのようでした。
2
今日も一昨日からの大雪で、ジキル氏の館は閉ざされたサークルです。
それでも時計は回ります。チク、タク、チク、タク、時間は巡ってそろそろお昼を回ります。
それでも夫人アイリーンは姿を見せません。昨日のことが、よっぽどショックだったのでしょうか?
「アイリーン」
コンコン、と響くのはお咳ではなくノックです。季語にはならない、通年の音です。
「アイリーン? アイリーン!」
トントン、と扉をたたくジキル氏の声が、どんどんと大きくなっていきます。
「どうしました、ジキル氏」
「アイリーンが起きてこないんです。鍵がかかっているから、部屋にいるはずなんですが。先ほどから、何度ノックをしても返事がなくて……」
「……何か、ドアをこじ開けられるものを持ってきましょう」
青い顔のジキル氏にかわって、丈夫な体のオーエン医師はいいものを持ってきて、ドアをこじ開けます。いいものは、とってもいいものです。
「アイリーン……」
部屋の中は、静かでした。
夫人アイリーンは、ベッドでうつ伏せになっていました。左手がだらんと垂れて、お布団は真っ赤に染まっています。
オーエン医師は女優アイリーンの手を取り手首に触れると、枕に沈んだ顔を確認して思わず眉をひそめ、声はひそめず何も言わず、ただ首を横にふりました。
「……」
窓は鍵がかかっていて、部屋も荒らされていません。部屋の中から日常は盗られていませんでした。泥棒もサンタさんも来なかったのでしょう。布団が真っ赤なこと以外、特に増えたものもありませんでした。
そして、内側からしか鍵のかからないお部屋には、ドアと窓以外に人が出入り出来る穴はありません。そしてそして、ドアに鍵がかかっているのは、ジキル氏がちゃんと確認しました。
「いきましょう。現場の保存は、鉄則です。それに、あまり見ない方がいい……」
オーエン医師に言われて、ジキル氏は部屋を後にしました。
左手の薬指から外された結婚指輪が、床に転がっているのだけが引っかかりました。それは、さよならだったのです。
3
「ジキル氏。私は貴男を疑ってはいませんよ。普段の、温厚な、貴男のことは……」
出口のないかまくらみたいな館の中で、二人きりの男たちは言い合いします。
私は貴男を疑っていないと。
でも、じゃあ誰が犯人なのでしょう?
ジキル氏はオーエン医師にいつものお薬を貰うと、布団に入りました。これがないともう、ジキル氏は眠れません。
そして、明けない夜はありません。終わらない悪夢はありません。朝は必ずやって来て、明日はいつだって今日に変わります。
それは希望ではありません。ただの観測にすぎません。だから希望にも絶望にも、見る人によって見えるのです。
「オーエン先生?」
姿も声も見当たらないオーエン医師を探して、目を覚ましたジキル氏は館を歩き回ります。でも、オーエン医師は見つかりません。ハイド・アンド・シーク、かくれんぼでしょうか?
「オーエン先生?」
ジキル氏は、可愛い子供が寝かされているベッドの下や、愛しい夫人が横になっているベッドの下まで探さなくてはいけないのでしょうか? いいえ、その前にジキル氏は見つけました。
「……!」
真っ赤なインクに染まった包丁、血の海みたいなキッチンの惨状、そして空っぽになったオーエン医師のお洋服。
「うっ……」
ジキル氏は口に手を当てます。あくびではありません。いつものお薬でよく眠れたから。
ジキル氏が口に手を当てたのは、家じゅうの鍋やお皿がそこかしこに並んでいて、お肉たっぷりのシチューが作ってあったからです。
こんなに食べきれませんね? いったい材料はどうしたのでしょう? かさ増しでもしているのでしょうか? ハイド・アンド・シーク、シチューに何かが隠れてる?
「ぅぅぁぁ……」
ジキル氏は走り出しました。
自分の書斎に、入りました。
そこにはたくさん、本があります。オーエン医師にすすめて貰った本もあります。
例えば、そう。とある博士が、自分の良い人格と悪い人格を分離させるご本とか。どうですか?
薬もあります。心のお医者さんオーエン医師から貰ったお薬は、用法用量を正しく破れば、ヒトの心臓を止めることもできます。
一連の事件の犯人に見当がついていたジキル氏は、やっとその確信を得ることができたジキル氏は、断罪することに決めました。そう、犯人を殺そうと思ったのです。
でも、ジキル氏は薬を選びませんでした。引き出しからピストルを出し、自分のこめかみに当てました。
「ああ、愛しいアイリーン。可愛い可愛いカミーユ。熱心に寄り添ってくださったオーエン先生。ごめんなさい……。ごめんなさい……」
大きな音が鳴り響きました。
それは、計画完了の合図でした。
「……」
ジキル氏は念願かなって死にました。
可哀そうにただ一人、死んでしまいました。
本当に本当に、死んでしまったのです。ああ、なんてことでしょう……。
ジキル氏は殺されました。自殺だったのです。
さて――。
聡明な読者の皆さん。
今回の事件の真相はわかったでしょうか?
自分で淹れ自分で選んだ珈琲を飲んで倒れたカミーユ嬢の謎。
密室の自室で真っ赤に染まり結婚指輪を落としていた夫人アイリーンの謎。
衣服とシチューを残しどこかへ隠れてしまったオーエン医師の謎。
そして、このジキル氏の館で起こった殺人事件の犯人。
すべての手がかりはここまでの文章の中に隠れているはずです。ハイド・アンド・シーク、準備がまだでも次のページに真相が来ます。
これは読者への挑戦状です。よかったら楽しんでくださいな。ハイド・アンド・シーク、かくれんぼ。
それでは、次のページでお会いしましょう。
あくまで信頼できる語り手でした――。
4
ジキル氏が死んだ後――。
それでも朝はやって来て、それでも明日はやって来て、来る日も来る日も過ぎていき、名女優アイリーンは医師オーエンと再婚しました。新しく子供も生まれました。
オーエン医師は新たな命とカミーユ嬢を分け隔てなく可愛がりました。カミーユ嬢には自分の血が流れていると信じていたのですから、当然です。
そうです。カミーユ嬢も女優アイリーンも、オーエン医師も生きています。死んだのはジキル氏ただ一人だけです。
何故って、全部演技だったからです。
だから、自分で淹れ自分で選んだ珈琲を飲んでカミーユ嬢は、まるで毒でも盛られたみたいに倒れることができたのです。
だから、密室の自室で布団を染め上げ愛しい人の眉を変顔でひそめさせた女優アイリーンは、結婚指輪をこれ見よがしに床へ捨てておいたのです。
だから、オーエン医師は心の病を患う患者に二重人格の本をすすめ、思わせぶりなことを言い、睡眠薬でぐっすり眠っている間に、シチューをたくさん作って恋人のベッドの下に隠れたのです。
全部、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ演技だったのです。
女優アイリーンとオーエン医師は、愛人関係にありました。それで、酷い雪の日に、かねてから準備していた計画を実行しました。
計画は見事成功。自分が、愛する人たちを殺した二重人格の人殺しだと信じ込んだジキル氏は、ピストル自殺を図りました。
計画完了の合図で、二人はよーいどん。熱い口づけを交わし、深く愛し合いました。
アイリーンとオーエンは自分たちの手を汚すことなく、邪魔なジキル氏を生の舞台から下りさせたのです。
ですが、これで二人はめでたしめでたし、とはいきませんでした。
だって、血の繋がりなんて知らず、本当の事なんて知らず、演技をさせられた当時七歳のカミーユ嬢は、ジキルパパが大好きだったのですから……。
えっ、なんでそんなことをわたくしが知っているのかって? あっ、訊いてない?
でも、いいじゃないですか。言わせてくださいよ。言いたいんです、わたくし……。
それは、わたくしがカミーユ嬢の復讐を手引きした悪魔だからです。
カミーユ嬢の心の中に住んでいる、正義の悪魔。それがわたくしなのです。
罪には罰、でしょう? 悪人が笑っているだなんて、わたくし、放ってはおけませんから。
ところで、貴方は罪を犯したことがありますか?
いえ、わたくし罪を犯したのに裁かれていない人間に罰を与えるのが趣味でして。
罪には罰、でしょう? 悪人が笑っているだなんて、わたくし、放ってはおけませんから。
いえいえ、殺人なんて大きな罪じゃなくていいんです。ちょっとした罪。警察だって取り合う気にもならないような罪、とか……。わたくし、大好物でございますよ?
ああ、言わなくて構いません。わたくし、もうわかっておりますので。
もしも、もしも、心あたりがあるのなら、お気をつけください。わたくし、狙った獲物は逃さないたちですので。
おっと、信じていらっしゃらない? わたくしを信頼できない語り手だと思っていらっしゃる?
ひどいですねぇ。ここまでわたくし、勘違いを誘うための小細工はたくさん仕込ませていただきましたが、事件に関しては一度も真実と異なることを申し上げてはおりませんよ? フェアに徹してここまで語ってきたつもりです。
例えばほら。血の繋がりのない親子を親子というか、というのはその時やその人によっても違うと思いますので。わたくしそんなところにまで気を使って、一度もカミーユ嬢をジキル氏の娘だとは申し上げておりませんし。
わたくしはジキル氏以外に死んだ、という表現は一度も使っていなかったと記憶しております。
他にもたくさん、本当のことだけを申し上げてきたつもりなのですが……。
それでも信じていただけない? わたくしを信頼できない語り手だとまだおっしゃる?
まあ、確かにそうですね。推理小説パートはもう終わりましたし。これまで嘘をつかなかったからといって、その人物がこれからもずっと嘘をつかないとは限りませんものね。
ええ、ええ、そうですとも。わたくしだって嘘はつきますとも。認めましょう。私は嘘つきです。信頼できない語り手ですよ。
と、話が随分ズレてしまいましたね。せっかくの推理小説が台無しだ。そろそろこの舞台は幕引きといたしましょうか。
ああ、最後に一つだけ。大事なことを。
この物語はフィクションです。実際の人物・団体・事件とは一切関係ございません。
それでは、また機会があれば、お会い致しましょう。
またあいたいなぁ、アリゲイター――。