なぜ哲学者は鬼ごっこをしなかったのか
こんにちは、湊です。
さっき友人と楽しい楽しい会話をしている中で、とてつもなく大きな疑問を抱いたので、皆さんにも共有したいと思います。
何かを伝えたいとかっていうよりも、なんでだと思う?という問いかけをしたい感じです。
よければコメントとかDMで、自分の意見教えてもらえると嬉しいです。
さてその問いはまさに題名で出てる、
「なぜ哲学者は鬼ごっこをしなかったのか」
です。
倫理の授業で、皆さん学校の語源を習ったかと思います。
つまり、土地を所有する概念ができたとき、地主は暇になってやることがなくなって、物思いにふけるようになり、結果哲学が生まれたというわけです。
僕は倫理の授業で、先生が
「みんな勉強で忙しい忙しい言うてるけど、暇やから勉強してるんやで?」
って言ってたことをすごく覚えています。
"忙しい要因が、実は暇だからやっていること"というパラダイムシフトみたいな考え方が面白いと、当時興味を惹かれていました。
……、
ちょっと待て、おかしくないか?
今日友人と話してる中でふと思ったわけです。
あれ、なんで、暇な時に、
「この世の中はいったいどうやってできているのだろうか」
とか
「私たちはなぜ生きているのだろうか」
とか考えたんだよ。と。
暇ができたら、鬼ごっこしたり、酒飲んだり、寝たり、イチャイチャしたり、はたまたエンタメ作ったり、色々できることややれることはあったはずなのに、
なんで、
「暇だったので、この世の始まりについて考えてみました。この世は火からできていると思います。」
ってなったんだ。
やべーーーーやつだろ。
でもさ、暇な時、「生きている意味はなんなんだろう」とか、そこまでいかなくても「何がしたいんだろう」とか考えたり、「なんで葉緑体は緑じゃないといけなかったんだ」とか考えることあるよな。
とも思うわけです。
しかも驚くべきことに、そう考える人は少なくなくて、だからこの世の仕組みを探究する科学が生まれ、存在を問う哲学や宗教があるわけです。
数世紀経てなお変わらない、人が自然を知りたがり、自分自身の存在を気にするこの現象はなんなんだろう。
と、僕はふと思ったわけです。
皆さんは、なんで、哲学者は鬼ごっこをせずに、この世の現象にあれやこれやと思いを馳せたのだと思いますか?
そして、僕たちは、なんで自分の存在意義が気になるんだろうか。
僕が思うに、社会的生き物という特徴が大きく関わってそうだけど、実は存在意義を考えすぎると存在意義を否定してしまうから、無意識に一定以上は考えないようにしてるとも思うんだよね。だから、哲学者って実は、自己否定の危機管理センサーがぶっ壊れているバカなのではと。
でもこの話はまた、違う時に。
みんなはどう思う?
読んでくれてありがとう。
湊 尚樹
ふわふわと、答えのなさそうな問いを考えることが好き。
それは意味がなさそうに見えて、意味があるんだろうし、その行為は広くみると実は意味ないけど、それが楽しいからいいよねっていう。
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