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なぜ哲学者は鬼ごっこをしなかったのか


こんにちは、湊です。

さっき友人と楽しい楽しい会話をしている中で、とてつもなく大きな疑問を抱いたので、皆さんにも共有したいと思います。


何かを伝えたいとかっていうよりも、なんでだと思う?という問いかけをしたい感じです。

よければコメントとかDMで、自分の意見教えてもらえると嬉しいです。


さてその問いはまさに題名で出てる、

「なぜ哲学者は鬼ごっこをしなかったのか」

です。

倫理の授業で、皆さん学校の語源を習ったかと思います。

学校は英語でschool(スクール)です。その言葉はラテン語のschola(スコラ)「学校」から、そのラテン語schoraはギリシャ語のskhole(スコレー)「余暇、ひま」からできた言葉

https://www.hibari.jp/weblog00/archives/2012/08/post_1464.html#:~:text=に向けて%20»-,学校とは,た言葉だそうです%E3%80%82


つまり、土地を所有する概念ができたとき、地主は暇になってやることがなくなって、物思いにふけるようになり、結果哲学が生まれたというわけです。

僕は倫理の授業で、先生が

「みんな勉強で忙しい忙しい言うてるけど、暇やから勉強してるんやで?」

って言ってたことをすごく覚えています。

"忙しい要因が、実は暇だからやっていること"というパラダイムシフトみたいな考え方が面白いと、当時興味を惹かれていました。


……、


ちょっと待て、おかしくないか?





今日友人と話してる中でふと思ったわけです。


あれ、なんで、暇な時に、


「この世の中はいったいどうやってできているのだろうか」

とか

「私たちはなぜ生きているのだろうか」


とか考えたんだよ。と。


暇ができたら、鬼ごっこしたり、酒飲んだり、寝たり、イチャイチャしたり、はたまたエンタメ作ったり、色々できることややれることはあったはずなのに、



なんで、


「暇だったので、この世の始まりについて考えてみました。この世は火からできていると思います。」


ってなったんだ。


やべーーーーやつだろ。


でもさ、暇な時、「生きている意味はなんなんだろう」とか、そこまでいかなくても「何がしたいんだろう」とか考えたり、「なんで葉緑体は緑じゃないといけなかったんだ」とか考えることあるよな。


とも思うわけです。


しかも驚くべきことに、そう考える人は少なくなくて、だからこの世の仕組みを探究する科学が生まれ、存在を問う哲学や宗教があるわけです。


数世紀経てなお変わらない、人が自然を知りたがり、自分自身の存在を気にするこの現象はなんなんだろう。


と、僕はふと思ったわけです。


皆さんは、なんで、哲学者は鬼ごっこをせずに、この世の現象にあれやこれやと思いを馳せたのだと思いますか?


そして、僕たちは、なんで自分の存在意義が気になるんだろうか。


僕が思うに、社会的生き物という特徴が大きく関わってそうだけど、実は存在意義を考えすぎると存在意義を否定してしまうから、無意識に一定以上は考えないようにしてるとも思うんだよね。だから、哲学者って実は、自己否定の危機管理センサーがぶっ壊れているバカなのではと。

でもこの話はまた、違う時に。

みんなはどう思う?

読んでくれてありがとう。



湊 尚樹

ふわふわと、答えのなさそうな問いを考えることが好き。

それは意味がなさそうに見えて、意味があるんだろうし、その行為は広くみると実は意味ないけど、それが楽しいからいいよねっていう。

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