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“ジョバンニの夢”としての銀河鉄道【キナリ読書フェス】

宮沢賢治の名作・「銀河鉄道の夜」は、主人公ジョバンニとその友人カムパネルラが銀河鉄道での不思議な世界を旅する物語。

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銀河鉄道の旅がジョバンニの夢の中のことであるという視点で、物語を振り返ってみたい。

ジョバンニの夢に親友のカムパネルラが出て来る。
近現代的な感覚で言えば、ジョバンニがカムパネルラを想う気持ちの強さである。

父が日本を離れ、母は病に伏せ、幼いジョバンニが働いてその母を支えている苦境。
しかし、幼いゆえに得られない周囲の仲間の理解。
親友・カムパネルラはジョバンニの苦境を知り、心を寄せながら、その他大勢の仲間に埋もれるようにジョバンニから離れている。少なくともジョバンニの目にはそう映る。願望も込めながら。

夢の中でジョバンニはカムパネルラとの不思議な世界、銀河鉄道の旅を共にする。
ジョバンニが夢の中で気付くことはないが、読者(大人の読者)は少しずつ、しかししっかりと、これが死者を死後の世界へと導く片道の旅であることを読み取るだろう。

果たして、ジョバンニが目を覚ました時、現実の世界ではカムパネルラが川に転落し、生存が危ぶまれる状況に陥っている。

では、ジョバンニの夢は予知夢だったのか?

カムパネルラと共に過ごしたいジョバンニの願望に、カムパネルラが陥った状況が食い込んできたのか?

ここで、私は平安の世における夢の捉え方に着目したい。

平安時代、夢に(生きている)誰かが出るということは、夢に出てきた人がその夢を見ている人を想っているという解釈がなされていた。
いわば近現代の感覚と逆である。

これは恋文(短歌)を贈る上での都合の良いレトリックという側面はあるだろうが、モチーフとしては一般的であるとされている。

その感覚を当てはめれば、カムパネルラこそ、ジョバンニに想いを寄せていたと言えないだろうか。

カムパネルラが生死を彷徨う時、ジョバンニとの交友関係を蔑ろにしてしまったことが心残りとなり、死後の世界へと向かう列車の夢にジョバンニを引き込んだと。

始め、ジョバンニとの久々の交友を楽しむ姿は、そうできなかった最近の関係に対する贖罪であり、後半になって後から乗客となった少女との関係でジョバンニとの関わりが薄らぐのは、死に迫る自分と親友との訣別を意味すると読み解けるのではないか。

目覚めたジョバンニは、そのことを読み取ったからこそ、カムパネルラを捜索する様子を眺めながら、カムパネルラの死を予見していたのではないか。

作者の宮沢賢治の意図はわからない。
そもそも、本作は完成に近い未完であり、作者による解説はない。

もちろん、宮沢賢治が平安時代の夢について意識していたかどうかもわからない。

ただ、ジョバンニの夢が、カムパネルラの消えゆく意識の影響を受けていると読み取るほうが自然に受け取れるし、それがカムパネルラを失うジョバンニの心の支えになること、希望になることの期待に繋がると思うのだ。

初めて読んだ高校生の頃にはそういう読み取りはできなかった。

大人になり、時に近しい人を失うからこそ沁みる内容であると改めて思う。

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