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記憶よりも記録を軸に、自分の変化を見つめる

こんにちは。今日は「記録」について。


思考の力学

先日ふと野帳(内省用ノートとして運用中)を見返したところ、以前考えたことが今別の思考・想定外の形で実現している、というケースに遭遇しました。

こういうのが記録を取り、振り返るメリットというやつでしょう。手前味噌ですが素晴らしい結果です。

さて、上記の話について別の表現をすると、過去の思考・方向性と現在のそれが何らかの形でつながっている、という言い方にはならないでしょうか。

過去は斜め45°で進みたかったがふらふらと曲線で進んでいた。現在は目指す方向に比較的真っ直ぐ進めている。

もちろん右上に進みたかったところ軌道修正して下寄りに、あるいは縦横だけでなくz軸をずらす動きをしているケースもありえます。

そしてこれらの変化を感じ取るためには記憶だけでは不十分。外部への記録が必要だと、改めて私は考えています。

記憶/今 と記録/過去 の違いを見切る

過去との変化を感じ取るうえで、当時の感覚を再編集したり、サクッとレッテルを張り替えたりする「記憶/今の認識」はあてにならないものです。

当時何を考え、何を信じ、何を求めていたかを、うまいこと当時の情報・記録として残していなければ、正しい比較にはなりません。

今回の事例も同じで、「結構長いことこの考え方でやってきている」と思っていた思想、着想(を記録)してから一ヶ月も経過していなかったんですよね。

加えて、記録上では以前気が狂うくらいに悩んでいたとしても、記憶としてあのときはバカなことを考えていたなぁ、と思うこともよくある話ではないでしょうか。

その解釈変更が悪いことかどうかはともかく、記録した時点での自分は確かにそれを真剣に悩んでいたはずです。

よって、今の自分はその悩みを超えた・変化した実績を持っている、ということになります。

変化していることを噛みしめる

個人的には、変化することは正しいことだと思っています。

ショッキングな出来事で価値観が変わる、あるいは今の思想を推し進めることで新たな気づきを得ることは、その状況に適応している点で正しい。

変化の方向性が散らばったり、ときに逆の思想に至ったとしてもその正しさは変わらず。さらには順走・逆走・多方向と、多くの可能性を受け入れる点での進歩と取れるかもしれません。

ですが私の事例のように、現状が過去から変化した結果であることを忘れてしまうことは多くあります。

この変化を味わい・噛みしめるためには記録が、それも当時の自分がなんの遠慮もなく書いた記録が必要です。

noteであろうがメモ帳であろうが、そうした記録は、未来の自分に「自分はこれだけ変化した」という大きな価値をくれるものだと思っています。

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